<い> (登録人数:73人)飯塚氏行【いいづか・うじゆき】 生没年不詳
掃部。猪俣党・藤田野三郎信国の弟。大里郡飯塚(花園町武蔵野字飯塚)に住して飯塚氏を称した。飯箸鷹之輔【いいはし・たかのすけ】 1829〜1892 64歳
柳剛流飯箸派祖。北葛飾郡二ツ沼村(吉川市二ツ沼)の生まれ。岡田十松に柳剛流を学び、34歳で免許皆伝。故郷にて道場「柳武館」を開く。池田鴨之助【いけだ・かものすけ】 生没年不詳
下総国葛飾郡小手指原の住人。慶長年間、幕府の命により栗橋宿を開発、以後代々本陣を命じられた。井沢為永【いざわ・ためなが】 1670〜1738 69歳
弥惣兵衛。幕臣。勘定方。はじめ紀州藩士で、徳川吉宗の将軍就任と共に関東へ出向。享保10年(1725)より見沼代用水の開削、見沼新田の開発を行なった。その工事は短期間にもかかわらず殆ど狂いがなく、為永の土木技術の高さが示された。これにより開かれた新田は1万2千町歩にも及んだ。石井択所【いしい・たくしょ】 ?〜1842
良平。儒学者。尾藤二州に学ぶ。川越藩藩校講学所設立の中心となった。著書に「小学摘解」「四書・五経訓式定本」。石井丹後守【いしい・たんごのかみ】 生没年不詳
実名不詳。岩付太田家家臣。三ツ木城主(桶川市川田谷)。石井政綱【いしい・まさつな】 生没年不詳
九郎右衛門。青木氏久の家臣。四ツ山城主(比企郡小川町高見)。石川信濃守【いしかわ・しなののかみ】 生没年不詳
実名不詳。古河公方足利家家臣。埼玉郡向古河郷(北埼玉郡北川辺町向古河)と埼玉郡南大桑(加須市南大桑)の所領を安堵された(「喜連川文書」)。石川伝兵衛【いしかわ・でんべえ】 生没年不詳
葛飾郡金崎村(庄和町金崎)の名主。寛政7年(1795)幕府より水防見廻役に任命され、権現堂川下流と江戸川筋の治水工事の監督を務めた。石川俊重 【いしかわ・とししげ】 ?〜1568
勘解由左衛門。倚井陣屋(北埼玉郡)を居所とした。北条氏康に攻められ戦死、2人の子供は落ち延びて農民になったという。石川富則【いしかわ・ふうふく】 生没年不詳
弥次右衛門。南埼玉郡大相模村(越谷市相模町)の人。30数年の間諸国を放浪して算学を学び、寛政年間に上総国で定住した。門下に谷塚宗次郎、斎藤岩蔵がいる。石川義俊【いしかわ・よしとし】 生没年不詳
明応頃の人物。石川信濃守の一族か。古河川辺領麦倉村(北川辺町麦倉)を開発した事で有名(「新編武蔵風土記稿」)石黒綱三【いしぐろ・つなぞう】 1811〜1865 55歳
正邑、諦信、弥五兵衛、張斎。比企郡新堀村(川島町三保谷宿、新堀)の名主。江戸の一瀬氏に師事し、家塾を開いて子弟の教育を行った。伊勢貞運【いせ・さだかず】 ?〜1590
又七、備中守。貞辰とも。貞陸の子。後北条家臣。入東郡田島(川越市南田島)にて45貫の知行を持っている。秀吉の小田原征討で戦死(「役帳」「関八州古戦録」「改正三河後風土記」「寛政重修諸家譜」)。伊勢貞就【いせ・さだなり】 生没年不詳
兵庫頭。後北条家家臣。入東郡福岡内刑部分、川崎田島(上福岡市)等に253貫384文を領していた(「役帳」)磯田健斎【いそだ・けんさい】 1761〜1835 75歳
章、長兵衛。亀田鵬斎、太田錦城等と交流し書道を学ぶ。比企郡増尾村(小川町大河)に寺子屋を設け、書道を教えた。新曽部卓斎【いそべ・たくさい】 生没年不詳
成田家家臣。親泰が忍城を築く際、忍の地形を調査した。板倉重種【いたくら・しげたね】 1641〜1705 65歳
兵庫頭、石見守、内膳正。下野烏山藩主板倉重矩の子。33歳で家督を継ぎ、天和元年(1681)岩槻藩6万石の藩主となる。奏者番、寺社奉行、老中、西の丸老中。6代将軍擁立に関して水戸家と対立、敗北し、老中を辞任。信濃坂木藩5万石に減封された(「新訂寛政重修諸家譜」)。伊丹渓斉【いたみ・けいさい】 1805〜1870 66歳
新左衛門。榛沢郡高島村(深谷市高島)の名主。京都にて桜井梅室に俳句を学び、自らも江戸に私塾を開いて俳句を教えた。市田長兼【いちだ・ながかね】 生没年不詳
太郎。私市党。熊谷久下城主。成田氏長の妹婿。1590年の忍城合戦では佐間口を守る。市田保則【いちだ・やすのり】 生没年不詳
次郎。久下重家の子。私市党。大里郡市田郷(熊谷市市田)に住して市田姓を名乗った。一瀬勘三郎【いちのせ・かんさぶろう】 1784〜1866 83歳
己之助。比企郡三保谷宿(川島町三保谷宿)の農民の子。18歳の時村の集会で無学を罵られてから一念発起し江戸へ出向。昼は米屋で働き、夜は塾へ通い学問を学んだ。数年後にはその塾で己之助に並ぶ者はなく、評判を聞いた旗本一瀬氏に養子に迎えられる。以後も学問に励み、林大学頭勤番詰、勘定吟味役にまで出世した。一色直朝【いっしき・なおとも】 生没年不詳
古河公方足利氏に仕える。もとは三河一色に居を構えていた。幸手城(幸手市中町)を築く。一色直朝【いっしき・なおとも】 ?〜1597
宮内大輔、月庵。古河公方足利家臣。幸手城主。和歌に通じ私歌集「桂林集」を著す。水墨画にも通じる(「古河公方御料所記」「寛政重修諸家譜」「小田原一手役書立」)。一色範行【いっしき・のりゆき】 生没年不詳
大興寺入道。南北朝時代の人物。広木吉原城主(児玉郡美里町広木)(「新編武蔵風土記稿」)。一色義直【いっしき・よしなお】 生没年不詳
直朝の子。慶長5年(1600)家康に召し出され、幸手領5160石を安堵された。一色頼氏【いっしき・よりうじ】 生没年不詳
伊予守。古河公方足利家家臣。幸手城主(幸手市中町)。出浦信行【いでうら・のぶゆき】 1806〜1887 82歳
市郎左衛門。秩父郡薄村(両神村薄)の名主。大野靖山に学び、加藤内蔵助とともに両神村で寺子屋を開いた。稲垣重綱【いながき・しげつな】 生没年不詳
摂津守。男衾郡須賀広(大里郡江南町須賀広)周辺を治めていた。。稲垣重太【いながき・しげふと】 1594〜?
藤七郎、若狭守。重綱の子。徳川幕府に仕える。寛永10年(1633)より須賀広を領した。稲垣田竜【いながき・でんりゅう】 1732〜1804 73歳
千松。足立郡鈴谷村(与野市鈴谷)の人。小野派一刀流剣術、日本本伝三浦流柔術、戸田流棒術、越後流兵法等の武芸を極め、さらに平田篤胤に国学、浅野北水に天文学を学んだ。のちに故郷鈴谷にて私塾を開き、数百人の門弟に教授した。稲垣藤左衛門【いながき・とうざえもん】 生没年不詳
岩槻藩士。大岡忠喜に仕える。郡奉行児玉南珂のもとで代官を勤めた。伊奈忠篤【いな・ただあつ】 1669〜1697 29歳
隼人、半十郎。忠常の子。12歳で家督を継ぎ関東郡代になったが夭折。伊奈忠宥【いな・ただあつ】 1729〜1772 44歳
半蔵、半左衛門、備前守。忠逵の次男。養父忠辰の跡を継ぎ関東郡代、勘定吟味役上座に就く。伝馬騒動の鎮圧に功績あり、勘定奉行に任じられた。伊奈忠勝【いな・ただかつ】 1611〜1619 9歳
熊蔵。小室藩1万石の藩主。幼少より家光に近侍したがわずか9歳で早世。嗣子なく小室藩は廃藩となった(「寛政重修諸家譜」)。伊奈忠克【いな・ただかつ】 1617〜1665 49歳
半左衛門。忠治の子。弟2人に計3千石を分与したため、4千石の知行となる。関東郡代として赤山陣屋(川口市赤山)に居す。父の遺業を継ぎ利根川東遷を完成させた。他に多摩川の水を江戸へ通したり、幸手用水(葛西用水路)を開削するなど功績は大きかった。伊奈忠隆【いな・ただたか】 生没年不詳
五郎左衛門。忠政の子。兄忠勝の死後、伊奈家の断絶を惜しんだ幕府が忠隆に小室1880石を与えて旗本に取りたてた。伊奈忠尊【いな・ただたか】 ?〜1794
半十郎、半左衛門、摂津守、右近将監。板倉周防守の子で伊奈忠敬の養子となり、伊奈家10代当主となる。関東郡代、勘定吟味役上座、小姓組番頭など要職を歴任。関東の諸河川の普請や江戸市民の救済に当たり、功績をたたえられた。しかし養子忠善のことに関する問題により所領を没収され、最後の伊奈家当主となってしまった。伊奈忠次【いな・ただつぐ】 1550〜1610 61歳
熊蔵、備前守、駿河守。徳川家家臣。忠家の子。いったん徳川家を出奔するがのち帰参。天正18年(1590)足立郡鴻巣・小室(北足立郡伊奈町小室)1万石を与えられ、小室藩初代藩主となる。代官頭として徳川氏領国の民政全般に敏腕を奮い、「伊奈流」と呼ばれる地方仕法の祖となる。関ヶ原では小荷駄奉行を勤める。武蔵各地に備前堤、備前堀を築き、江戸の後背地として、埼玉を豊穣な生産地帯につくりあげる礎を築いた。特に大里郡7万石の灌漑用水となった備前渠(本庄市〜妻沼町)、川島領(川島町)を囲んだ堤防が有名(「伊奈忠次文書集成」「寛政重修諸家譜」)。伊奈忠常【いな・ただつね】 1649〜1680 32歳
半十郎。忠克の子。関東郡代となり赤山に居す。伊奈忠辰【いな・ただとき】 1705〜1767 63歳
半十郎、半左衛門。忠順の長男。忠逵より関東郡代を受け継いだが、僅か4年で致仕した。伊奈忠治【いな・ただはる】 1592〜1653 62歳
半次郎。忠次の次男。兄忠政の死後、嫡子忠勝が幼少だったため、関東郡代の職に就く。足立郡赤山(川口市赤山)に陣屋を築き、7千石を有した。父に次いで大規模な治水工事を行い、佐波(大利根町)〜本郷(北川辺町)の利根川新川の開削、関宿〜金杉(松伏町)の江戸川開削、久下(熊谷市)〜川島(川島町)の荒川開削などを完成させた。伊奈忠政【いな・ただまさ】 1585〜1618 34歳
熊蔵、筑後守。忠次の長男。小室藩1万石の藩主。父に引き続き関東の代官として新田開発、河川改修を行なった。また大坂夏の陣に出陣し、敵の首級30を討ち取った(「徳川実記」「寛政重修諸家譜」)。伊奈忠逵【いな・ただみち】 1690〜1756 67歳
半左衛門。伊奈定永の次男で忠順の養子。関東郡代、勘定吟味役上座。伊沢弥惣兵衛を助けて見沼代用水の開削に貢献。しかし手代の不正事件や収納米腐朽などにより減封処分を受ける。伊奈忠順【いな・ただゆき】 ?〜1712
半左衛門。兄忠篤の養子となり関東郡代に就任。利根・荒川両川の普請を行う。宝永の富士山大噴火が起こると被災民救済に当たり、村民により伊奈神社が建立され祀られたという。大正時代に従五位を贈与された。稲葉朝宗【いなば・ともむね】 ?〜1865
隼人。川越藩執政。越前松平家では結城氏以来の家臣。600石を知行していた。井上将監【いのうえ・しょうかん】 生没年不詳
実名不詳。太田氏房の臣。埼玉郡井上(春日部市一ノ割)に居を構えた。井上如常【いのうえ・にょじょう】 1811〜1890 80歳
長次郎。秩父郡大宮郷(秩父市大宮)の絹布商人井上青岳の子。幼少時に孝行息子として忍藩より表彰を受ける。幕末期の民衆の困窮を救おうと江戸大伝馬町にて心学道話の講演を開く。特に「捨て子」の悪習を絶とうとして社会育嬰講を慈善寄付のみで起こし、今の回覧板にあたる「集義廻章」を著しはしかの予防法などを広めた。維新後に大宮郷長となる。生涯の殆どを社会慈善事業につくしたため「秩父聖人」と称された。井上信成【いのうえ・のぶなり】 1803〜1876 74歳
秩父郡大宮郷(秩父市大宮)の絹織物商の生まれ。江戸にて国学・和歌を学び大宮郷で私塾を開いた。井上三河守【いのうえ・みかわのかみ】 生没年不詳
実名不詳。北条氏邦の臣。永田城代(秩父市寺尾)。天正18年(1590)に鉢形城に篭城する。井上淑蔭【いのうえ・よしかげ】 1804〜1886 83歳
入間郡石井村(坂戸市石井)の人。清水浜臣に和歌を学ぶ。また考証学者としても有名で、石棒を研究した『石劔考』は考古学的研究として高く評価されている。猪俣資綱【いのまた・すけつな】 生没年不詳
政家の子。猪俣党。猪俣忠兼【いのまた・ただかね】 生没年不詳
野三貫主。猪俣党。時範の長男。猪俣忠綱 → 岡部忠綱
猪俣忠基【いのまた・ただもと】 生没年不詳
猪俣党。忠兼の長男。猪俣時範【いのまた・ときのり】 生没年不詳
野五郎。横山時資の子。児玉郡猪俣(児玉郡美里町猪俣)に土着し、猪俣氏の祖となった。猪俣範高【いのまた・のりたか】 生没年不詳
左衛門尉。範綱の子。鎌倉幕府に仕え、承久の乱で戦功をあげた。猪俣範綱【いのまた・のりつな】 生没年不詳
小平六。資綱の子。時範5代。源氏方として平治の乱、一の谷合戦で活躍。武勇の誉高く、一の谷では越前前司盛俊を討ち取った。猪俣範直【いのまた・のりなお】 ?〜1590
能登守。上野沼田城主。豊臣軍が関東にせまると鉢形城に篭城した。猪俣範宗【いのまた・のりむね】 生没年不詳
範直の弟。北条氏邦の臣。鉢形城の支城虎ヶ岡城主(児玉郡美里町白石)。猪俣肥前【いのまた・ひぜん】 生没年不詳
実名不詳。猪俣党。北条氏邦の臣。侍大将。900貫の知行を得ていた。猪俣政家【いのまた・まさいえ】 生没年不詳
小野三。忠兼の3男。猪俣党。猪俣政経 → 人見政経
猪俣政基【いのまた・まさもと】 生没年不詳
猪俣党。忠基の次男。猪俣政行 → 藤田政行
猪俣行兼 → 木部行兼
今井兼庭【いまい・けんてい】 1717〜1779 63歳
官蔵、赤城。賀美郡金久保村(上里町金久保)の農家出身。高名な暦算家で前橋藩、幕府代官に仕える。職を退くと江戸駿河台に塾を開き算学を教え、門弟に本多利明を輩出している。著書に「明玄算法」「円理綴術」今井八郎【いまい・はちろう】 生没年不詳
晋。江戸の浪人で佐藤一斎に朱子学を学んでいたが、石井択所とともに河越藩に召し抱えられ述古塾を開く。私塾でありながら藩士育成の場として公的に認められ、河越藩の教学体制の一翼を担ったが、突然八郎は解雇されてしまう。下女に傷を負わせたのが原因という。岩井常陸介【いわい・ひたちのすけ】 生没年不詳
武蔵一ノ宮氷川神社の神主。応永33年(1426)夢のお告げにより、当時氷川神社に宿泊していた月江正文禅師を足立郡大成(大宮市大成)に案内した。岩井又助【いわい・またすけ】 ?〜1866
又兵衛、慎。岡部藩士。安倍信古の学問の相手となる。また江戸と岡部の両地で藩士に儒学を教えた。御使番、物頭、大目付などを歴任。岩崎長容【いわさき・ながかた】 生没年不詳
角兵衛。忍藩御勝手掛で116石取りであった。黒沢翁満の門下生。藩主の命により「増補忍名所図会」を著した。岩田右京大夫【いわた・うきょうだゆう】 生没年不詳
応永年間(1394〜1427)の人物。応永11年(1404)埼玉郡糯田(行田市持田)の領主となった。岩田政広【いわた・まさひろ】 生没年不詳
七郎。丹党白鳥基政の次男。秩父郡岩田(長瀞町岩田)に従して岩田姓を名乗った。源頼朝に良く仕え、代々幕府御家人として活躍した。承久の乱では敵一人を討ち取る功を挙げる。岩田義幸【いわた・よしゆき】 生没年不詳
北条氏邦の臣。もとは藤田康邦に仕える。鉢形城の支城天神山城主(長瀞町岩田)。岩松家純【いわまつ・いえずみ】 生没年不詳
岩松氏は新田氏の有力庶子で、上野国新田郡岩松庄の在地領主である。父満純が上杉禅秀の乱で禅秀側に与したため、一時西国に逃れる。永享の乱後関東に戻るが、弟持国と家督を争い、家純は五十子(本庄市)に逃れ持国と争う。持国死語の文明元(1469)年に両家を統一した。岩本定次【いわもと・さだつぐ】 生没年不詳
太郎左衛門。後北条家臣。御馬廻衆の1人。相模東郡鵠沼、三浦平佐久、川越須奈(川越市砂)にて187貫167文の知行を有していた(「役帳」)。印融【いんゆう】 1435〜1519 85歳
真言僧。弘法大師の再来と言われた逸材で、関東密教の興隆を目指して浦和玉蔵院や川口錫杖寺に滞在した。印融によって武蔵国内の真言宗の勢力は曹洞宗に次ぐものとなった。「文筆問答抄」等著書多数。