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深井対馬守【ふかい・つしまのかみ】 ?〜1480
 長尾景春の臣。追撃を受ける景春軍の殿軍を勤め、討死した。

普寛【ふかん】 生没年不詳
 江戸時代の天台僧。大滝村の生まれ。神道御嶽教を創始して、上州武尊山、木曽御岳などの登山道を開いた。本庄で病没、同地に墓がある。

福井兵右衛門【ふくい・ひょうえもん】 1702〜1782  81歳
 嘉平。下野都賀郡藤葉村の生まれ。34歳のとき、信州戸隠山に登り、50日の参篭の後開眼、神道無念流を興した。江戸の四谷に道場を開いていた時、入門してきた戸賀崎熊太郎暉芳に目をつけ、流儀の道統を継がせた。晩年は熊太郎の郷里である上清久村(久喜市)で過ごす。

福島東雄【ふくしま・あずまお】 1734〜1803 70歳
 足立郡大間村(鴻巣市大間)の名主。横田柳几に俳諧を学び杉夕と号した。農民学者としても有名で、武蔵国の地誌『武蔵志』全14巻を独力で著している。

福島貞雄【ふくしま・さだお】 1785〜1861 77歳
 東雄の孫。県内唯一の農書である『耕作仕様書』を著した。

福田又左衛門【ふくだ・またざえもん】 生没年不詳
 豊臣家家臣。豊臣家滅亡後、金子山城(大宮市高木)に住み着いたという。

藤井雅楽之介【ふじい・うたのすけ】 生没年不詳
 肥前平戸郷の郷士。慶長年間に埼玉郡平戸(熊谷市平戸)に移り住んだという。

藤井大助【ふじい・だいすけ】 生没年不詳
 成田家家臣。埼玉郡藤井(羽生市藤井上組、藤井下組)に10貫を領していた(「成田分限帳」)

藤田氏光【ふじた・うじみつ】 生没年不詳
 右衛門佐。北条氏康の6男。藤田康邦の養子となり、天神山城主(秩父郡長瀞町岩田)となる。

藤田重連【ふじた・しげつら】 ?〜1578
 弥八郎。康邦の実子。父亡き後、義兄北条氏邦に殺害され、天神山城は乗っ取られた。

藤田新太郎 → 北条氏邦

藤田綱高【ふじた・つなたか】 生没年不詳
 大蔵丞。後北条家御馬廻衆。奏者をつとめる。福岡之内(上福岡市)、玉作(大里郡大里村玉作)等に396貫887文を領していた(「役帳」)

藤田信吉【ふじた・のぶよし】 生没年不詳
 弥六郎、能登守。康邦の次男。はじめ北条氏邦に従っていたが、兄重連が毒殺されると武田勝頼に通じ、武田家滅亡後は上杉景勝に仕える。

藤田政行【ふじた・まさゆき】 生没年不詳
 五郎。猪俣政家の次男。男衾郡藤田(大里郡寄居町藤田)に居住し、藤田氏の祖となった。花園城(大里郡寄居町裾野)を築く。

藤田康邦【ふじた・やすくに】 1513〜1555 43歳
 虎寿丸、右衛門佐、新左衛門尉。初名重利。天神山城主(秩父郡長瀞町岩田)。関東管領上杉氏に仕えるが、北条氏康の子氏邦を婿養子として後北条氏の麾下に入った。以後、用土姓を名乗り用土城(大里郡寄居町用土)に隠居している(「越後史集」)。

藤田行保【ふじた・ゆきやす】 ?〜1184
 三郎大夫。藤田氏2代。源頼朝に仕えるが、一の谷で討死。

藤田能兼【ふじた・よしかね】 生没年不詳
 左衛門。能国の子。藤田氏4代。鎌倉幕府の御家人。承久の乱で先陣を勤め、見事戦功をあげている。

藤田能国【ふじた・よしくに】 生没年不詳
 右衛門尉。行保の子。藤田氏3代。父の所領を引き継いだ。文才にたけ、承久の乱後、北条泰時に院宣が下された時、その院宣を解読したという。

伏見小太郎【ふしみ・こたろう】 生没年不詳
 豊後入道。山口根小屋城主(所沢市勝楽寺)(「新編武蔵風土記稿」)。

藤原季清 → 毛呂季清

藤原恒儀【ふじわら・つねのり】 ?〜829
 青鳥判官。青鳥城主(東松山市石橋)(「恒儀社縁起」)。

藤原恒政【ふじわら・つねまさ】 生没年不詳
 恒儀の子。比企郡羽尾(比企郡滑川町羽尾二区)に羽尾(恒儀)神社を創建した(「恒儀社縁起」)。

藤原常光 → 中条常光

布施田山城守【ふせだ・やましろのかみ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。永禄8年(1565)の深谷合戦における戦功により、大里郡内に500貫文の知行を与えられた(「新編武蔵風土記稿」)。

布施康能【ふせ・やすよし】 生没年不詳
 彈正左衛門尉、佐渡守。後北条家家臣。小田原衆。駿河蒲原城主。高麗郡藤金(鶴ケ島市藤金)、河越三十三郷善応寺分(坂戸市善能寺)、入西郡大在家(坂戸市森戸)等に438貫180文を領していた(「役帳」)。