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北条氏邦【ほうじょう・うじくに】 1541(43)〜1597 57(55)歳
 新太郎、安房守。氏康の3男。鉢形、上野箕輪城主。天神山城主(秩父郡長瀞町岩田)藤田康邦の養子として鉢形城に入る。天正18年(1590)には鉢形城に篭城して、豊臣軍5万を迎え撃つ。氏邦は荒川の流れをせきとめて、敵が川を渡ると一気に押し流すなど、知略の限りを尽くして戦ったが、本多忠勝の持ち出した大砲にはかなわず、城兵の助命を条件に降伏。役後出家するが、前田利家に客分として招かれ、加賀金沢に移った。

北条氏繁【ほうじょう・うじしげ】 1536〜1578 43歳
 善九郎、左衛門大夫、常陸守。別名康成。綱成の子。相模玉縄、下総飯沼城主。太田氏資死後、城主不在となった岩槻城に入り、領内支配を行なった。

北条氏綱【ほうじょう・うじつな】 1486〜1541 56歳
 千代丸、新九郎、左京大夫。早雲の子。小田原城主。後北条氏2代。伊勢氏からの改姓、小田原への本拠の移動、虎の印判の使用など、「北条らしさ」を築き上げた人物。大永4年(1524)江戸城攻略、天文6年(1537)河越城攻略。同7年には武蔵中部から下総西南部まで勢力を拡大した。遺言状に「合戦は勝たねばならないが、どんな卑怯な手段を使ってもよいというわけではない。卑怯な手段で領土を得ても、のちのちまで嘲られるだろう。」と書き残している。

北条氏照【ほうじょう・うじてる】 1540〜1590 51歳
 源三、陸奥守。氏康の次男。武蔵滝山、八王子、下総栗橋、下野祇園城主。滝山城主大石定久の養子となる。後北条氏の北関東への勢力拡大に大いに貢献。秀吉が北条討伐の軍をおこすと開戦を主張、兄氏政とともに小田原に篭城した。開城後切腹(「寛政重修諸家譜」)。

北条氏舜【ほうじょう・うじとし】 生没年不詳
 左衛門大夫。氏繁の長男。相模玉縄城主。父の死後岩付城代となるが、数年で弟氏勝に家督を譲った。

北条氏房 → 太田氏房

北条氏康【ほうじょう・うじやす】 1515〜1571 57歳
 新九郎、相模守、左京大夫。氏綱の子。相模小田原城主。後北条氏3代。扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏を越後に追いやり、古河公方足利氏を乗っ取るなど、関東統一に尽力。また検地の実施、「所領役帳」の作成、税制改革、支城制の整備などにより領内の支配を強化した。また男子8人、女子7人いたという子供たちを養子縁組、政略結婚などに利用し、要衝を一族で固めることに成功した。決して自分より強い相手と戦おうとはせず、上杉謙信や武田信玄が小田原城を囲んだ時も、あくまで防衛に徹している。そもそも謙信にとっては、信玄よりも氏康の方が(関東管領として)本当に戦う相手であるのに、謙信をあまりその気にさせないあたり、一枚上手である。結局、戦争マニア謙信にみこまれた信玄は上洛の機会を失い、みこまれなかった氏康は悠々と関東統一にいそしめた。

北条綱成【ほうじょう・つなしげ】 1515〜1587 73歳
 勝千代、左衛門大夫、上総入道。今川家家臣福島正成の子。父が戦死すると、北条を頼り、北条氏綱の養子となる。河越城主、のち相模玉縄城主。県内では入西郡竹之内(坂戸市竹之内)、高麗郡白子(飯能市白子)に知行を領していた。河越夜戦のときは河越城に篭城中で、氏康率いる8千の援軍が来ると同時に城から打って出た。黄絹に八幡大菩薩と書かれた旗印は「地黄八幡」と呼ばれ、敵に恐れられていた。氏康死後出家。

星見小太郎【ほしみ・こたろう】 生没年不祥
 実名不祥。山口根小屋城主(所沢市勝楽寺)(「新編武蔵風土記稿」)。

細萱光仲【ほそがや・みつなか】 生没年不祥
 民部少輔。後北条家家臣。葛飾郡栗原城主(久喜市栗原)。永禄4年(1561)上杉謙信の軍勢が栗原城にせまっていた時、光仲は城兵70騎とともに小田原にあったため、城は焼き払われた(「鷲宮社領郷主細萱氏系図」)。

細萱泰秀【ほそがや・やすひで】 1551〜?
 光仲の子。後北条家家臣。埼玉郡花崎城主(加須市花崎)。永禄4年(1561)上杉謙信の軍勢が花崎城に攻め寄せ、花崎城は落城した(「鷲宮社領郷主細萱氏系図」)。

細谷資道【ほそや・すけみち】 生没年不詳
 三河守。岩槻太田氏の家臣。のち後北条氏につかえる(「役帳」)

本庄実忠【ほんじょう・さねただ】 生没年不祥
 宮内少輔。本庄城主(本庄市本庄三丁目)。山内上杉憲政の家老。主家没落後、後北条氏に仕える。

本庄近朝【ほんじょう・ちかとも】 生没年不祥
 隼人正。実忠の子。本庄城主。後北条家家臣。主家滅亡後に帰農した。

本庄頼家【ほんじょう・よりいえ】 ?〜1184
 小太郎。庄家長の子。初めて本庄姓を名乗る。一ノ谷で戦死。

本田親定【ほんだ・ちかさだ】 生没年不祥
 親房の子。鎌倉幕府に仕え、相模一の宮に居住した。

本田親常【ほんだ・ちかつね】 ?〜1205
 次郎。本田氏の祖。男衾郡本田(大里郡川本町本田)に居を構えていた。畠山重忠に仕えていたが、主君とともに二俣川で戦死した。

本田親房【ほんだ・ちかふさ】 ?〜1213
 太郎。親常の子。畠山重保に従う。和田合戦で討死。

本田長繁【ほんだ・ながしげ】 生没年不祥
 親定の子孫。後北条家家臣。本領である男衾郡本田(大里郡川本町本田)に居住した。

本田長親【ほんだ・ながちか】 生没年不祥
 長繁の子。後北条家家臣。天正18年(1590)には小田原城に篭城し、豊臣軍を迎え撃った。