<お> (登録人数:71人)大石直久【おおいし・なおひさ】 生没年不詳
源太郎、越後守。縄周の子。後北条家家臣。柏の城主(志木市柏三丁目)。北条氏政の命により、駿河獅子浜城の守衛に就く(「新編武蔵風土記稿」「北条五代記」)。大石信吉【おおいし・のぶよし】 生没年不詳
信濃守。後北条家家臣。柏の城主(志木市柏三丁目)(「新編武蔵風土記稿」)。大岡忠固【おおおか・ただかた】 ?〜1852
捨五郎、主膳正。加納久周の5男。初め鈴木大学を名乗っていたが、兄である大岡忠正の養子となり、跡を継ぐ。岩槻藩2万石の藩主。奏者番、若年寄。治世中岩槻新町において打ちこわしが発生、何とか沈静したという。天保15年(1844)に江戸城本丸普請奉行を勤め、3千石加増されている。また、幕命により江戸湾防備のため大砲・小銃の鋳造を行ない、川口の永瀬文左衛門に三貫目砲を発注している。嘉永5年(1852)江戸に出向した公家の接待役を勤め、江戸城から国府台、船橋の見学の案内をしたといい、この時のことを「船橋紀行」として著している。趣味は名石収集(「新訂寛政重修諸家譜」「維新史」)。大岡忠貫【おおおか・ただつら】 1847〜1920 74歳
正太郎、主膳正。忠恕の子。岩槻藩2万3千石の藩主。慶応2年(1866)家督を継ぐ。明治元年(1868)に東山道総督の命により幕府脱走兵の追討に従った。版籍奉還で岩槻藩知事となるが、廃藩置県により知藩事の任を解かれる(「系図纂要」「華族大成」「維新史」)。大岡忠要【おおおか・ただとし】 1766〜1786 21歳
式部、式部少輔。忠喜の子。岩槻藩2万石の藩主。奏者番に就くがわずか1年で没した。忠要の代には天災が相次ぎ、藩の出費が増大したので、児玉南珂を勝手向取締役に任じ倹約を実行させた(「新訂寛政重修諸家譜」)。大岡忠正【おおおか・ただまさ】 1781〜1816 36歳
奔三郎、久成、主膳正。加納久周の子。大岡忠烈の養子として岩槻藩2万石を継ぐ。教学を振興、遷喬館や武芸稽古所を設けた(「新訂寛政重修諸家譜」「系図纂要」)。大岡忠光【おおおか・ただみつ】 1712(09)〜1760 52(49)歳
出雲守。忠利の子。初め8代将軍吉宗、のち9代将軍家重に仕える。享保18年(1733)足立郡、埼玉郡、比企郡にあわせて800石を賜る。御小姓番頭を経て家重の御側衆となり、1200石の加増を受ける。家重は生来病弱で、言語不明瞭であったため、その言葉を唯一理解できた忠光が重用され、家重のもとを一時も離れなかったという特殊な関係であった。以後、若年寄、側用人と順調に出世し、宝暦6年(1756)2万石となり岩槻藩主となる。ただし、領内にいたのはたったの10日間だけであった(「新訂寛政重修諸家譜」)。大岡忠烈【おおおか・ただやす】 1767〜1844 78歳
鶴次郎、丹後守。忠喜の次男。岩槻藩2万石の藩主。兄忠要の養子となり跡を継いだ。子に恵まれず、寛政10年(1798)に叔父である上総一宮藩主加納遠江守久周の子忠正を養子とし、翌年家督を譲った(「新訂寛政重修諸家譜」)。大岡忠恕【おおおか・ただゆき】 1822〜1880 59歳
邦之丞、兵庫頭。忠固の子。岩槻藩2万3千石の藩主。孝明天皇の皇女和宮の将軍降嫁の際、岩槻藩内の村々は助郷を出し、藩側も道中警備を命じられ、藩士34名をだしている(「系図纂要」「内閣文庫蔵諸侯年表」「維新史」)。大岡忠喜【おおおか・ただよし】 1737(8)〜1806 70(69)歳
兵庫頭。忠光の子。岩槻藩2万石の藩主。奏者番。病弱であったため早くに致仕した(「新訂寛政重修諸家譜」)。大川平兵衛【おおかわ・へいべえ】 1801〜1871 71歳
栄次郎、英勝。川越、前橋藩士。埼玉郡上之(熊谷市上之)の農家の出身。神道無念流秋山要助に師事し、30歳のとき免許皆伝を得る。22歳のとき入間郡横沼(坂戸市横沼)の大川家の娘婿となり大川姓となる。文久2(1862)年川越藩の剣術師範となり、13石4人扶持の士分となる。引退後は松山(東松山市)に隠棲し、同地で没した(『上毛剣客史』)大河戸行方【おおかわど・ゆきかた】 生没年不詳
下総権守。太田行光の子。葛飾郡大河戸(北葛飾郡松伏町大川戸)に居を構え、大河戸氏を称した。鎌倉幕府の御家人。大河原時季【おおがわら・ときすえ】 生没年不詳
中村時経の次男。秩父郡大河原(秩父郡東秩父村御堂)に移住し、大河原氏の祖となった。大草加賀守【おおぐさ・かがのかみ】 生没年不詳
実名不祥。後北条家家臣。小田原衆の1人。比企郡中山(川島町中山)等で391貫420文を領していた(「役帳」)。大久保忠隣【おおくぼ・ただちか】 1553〜1628 76歳
千丸、新十郎、治部少輔。忠世の子。徳川家康の臣。家康のもと姉川・三方ヶ原・長久手などを歴戦、また多くの奉行職を勤める。家康の関東入国の際2万石と羽生城(羽生市東五丁目)を与えられる。文禄3年(1594)父の遺領を継ぎ相模小田原城6万5千石の領主となる。しかし、羽生城主も兼ねていたようだ。慶長18年(1613)政敵本多正信の策略により改易、井伊直孝預かりとなる。大久保忠常【おおくぼ・ただつね】 1580〜1611 32歳
新十郎、加賀守。忠隣の嫡子。秀吉の小田原征伐の時11歳で初陣。関ヶ原では上田城の真田昌幸を攻める。翌年埼玉郡騎西領2万石を与えられ、私市(騎西)藩主となる(「寛政重修諸家譜」)。大久保忠職【おおくぼ・ただもと】 1604〜1670 67歳
新十郎、加賀守。忠常の子。私市(騎西)藩2万石の藩主。寛永9年(1632)3万石を加増され美濃加納藩に転封した(「寛政重修諸家譜」)。大島有隣【おおしま・うりん】 ?〜1836
心学者。葛飾郡大島村(北葛飾郡杉戸町大島)の名主。中沢道二に師事し、江戸に盍簪舎を開設、独自の神道主義にもとづく心学を普及していった。文政2年(1819)幕府の命を受け、人足寄場の教論方となる。太田氏資【おおた・うじすけ】 1543〜1567 25歳
源五郎。資正の子。岩槻城主(岩槻市本丸)。後北条家家臣。永禄7年(1564)、父と弟を追放して城主となる。上総三船山にて里見義弘と戦った際討死した。太田氏房【おおた・うじふさ】 生没年不詳
十郎。北条氏政の3男。太田氏資戦死後岩槻城主となり、太田姓を継いだ。秀吉の関東征伐の時は小田原に篭城する。落城後高野山に追放となる。太田下野守【おおた・しもつけのかみ】 生没年不詳
実名不祥。岩付太田氏の一族。滝の城(所沢市城)を築いたと言われる(「入間郡誌」)。太田十郎兵衛【おおた・じゅうろうべえ】 生没年不詳
実名不祥。後北条家家臣。松山衆の1人。入西郡堀籠(坂戸市堀込)で27貫779文の知行を得ていた(「役帳」)。太田新次郎【おおた・しんじろう】 生没年不詳
実名不祥。後北条家家臣。江戸衆の1人。江戸原宿、川越鴨田(川越市鴨田)などで22貫500文を領していた。島津衆としている文献もある(「役帳」)。太田資家【おおた・すけいえ】 ?〜1522
信濃守。道真資清の子。兄道灌資長の養子となり、岩槻城主となる。川越鴨田に館を構えていた。太田資清【おおた・すけきよ】 1411〜1492 82歳
源六郎、左衛門大夫、備中守。号道真。資房の子。道灌の父。扇谷上杉持朝の重臣。長禄元年(1457)持朝の命により岩槻城、河越城を息子道灌資長と共に築く。康正元年(1455)には越生に隠棲した。歌人としても有名で宗祇や心敬を招いて「河越千句」を行なった。太田資時【おおた・すけとき】 ?〜1546
信濃守。資頼の子。扇谷上杉家家臣。岩槻城主。河越夜戦で主家が敗れると後北条氏に仕える。太田資長【おおた・すけなが】 1432〜1486 55歳
鶴千代、源六郎、左衛門大夫、備中守。号道灌。資清の子。扇谷上杉定正の重臣。康正元年(1455)家督相続。長禄元年(1457)に江戸城を築き、また同年父道真と共に岩槻・河越両城を築く。寛正6年(1465)上洛、8代将軍将軍足利義政に謁見した。その際、義政に「武蔵野の風景はどのようなものか」と問われ、「我が庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」と答えたという。また後花園上皇にも謁見、その際も武蔵野の風景について聞かれ、「露おかぬかたもありけり夕立の 空より広き武蔵野の原」「年ふれど我まだ知らぬ都鳥 すみだ河原に宿はあれども」の歌で奉答したという。文明12年(1480)には長尾景春の乱を静め、扇谷上杉氏を家格上位の山内上杉氏と同等の勢力にした。しかしこのことを疎ましく思った山内上杉顕定は定正をそそのかし、道灌を亡き者にしようとした。定正はこの計略にかかり、曽我兵庫に命じて、相模糟屋の上杉館で入浴を終えて無防備の道灌を斬殺した。抵抗できない道灌はただ一言「当方、滅亡!」と叫んで死んだという。「自分を殺すようでは扇谷上杉は滅ぶぞ」といったのである(「関東管領記」)。太田資正【おおた・すけまさ】 1522〜1591 70歳
美濃守、民部大輔、三楽斎。資頼の次男。扇谷上杉氏の重臣。岩槻城主。河越夜戦の際は上杉方の部将として参陣するも、敗戦の後わずか9騎で松山城に逃げ込み、さらに上野まで追われてしまった。しかしその年の内に松山・岩槻両城を奪回、天文21年(1552)上杉憲政が越後に敗走した後は、北武蔵で唯一、後北条氏に抵抗する勢力となった。その後も上杉謙信を頼りに北条・武田と戦うが、一時は北条氏の傘下に入り、入東郡古尾谷(川越市古谷本郷、古谷上)に776貫400文の知行を得ていたこともある。永禄5年(1562)松山城が落ちると岩槻に孤立、同年岩槻城を留守中に長男氏資が北条方に寝返り、資正はやむなく忍の成田氏、ついで常陸の佐竹氏に身を寄せ、常陸片野城主となった。天正18年(1590)小田原を包囲する豊臣秀吉に召し出され、「天下一の名将」と褒め称えられた。翌年、片野にて死去。太田資康【おおた・すけやす】 生没年不詳
源六。室町後期の人物。菅谷城主(上尾市菅谷)。太田資頼【おおた・すけより】 ?〜1536(41)
彦六、美濃守。資家の子。扇谷上杉家家臣。岩槻城主。大永5年(1525)北条氏綱が岩槻城に攻撃を仕掛けてきた時、よく防戦するも、家臣渋江三郎の内応により落城、資頼は石戸城(北本市石戸宿)に逃げ込んだ。渋江三郎が岩槻城主となり、北条の傘下に入ったが、享禄3年(1530)資頼は渋江三郎を破って岩槻城奪回に成功した。太田輝資【おおた・てるすけ】 ?〜1603
備中守。太田道灌の曾孫。のち後北条家に仕える。本郷城主(川口市東本郷)、谷古田城主(川口市谷古田)。主家滅亡後家康の招きに応じず、谷古田の地に土着した。太田道灌 → 太田資長
太田道真 → 太田資清
太田豊後守【おおた・ぶんごのかみ】 生没年不詳
実名不祥。後北条家家臣。諸侍衆触、普請奉行、作成奉行。松山衆の1人。吉見郡大串(吉見町大串、江綱)・比企郡戸森(川島町戸森)・上野国高嶋郷(深谷市高島)に502貫922文の知行を有していた。永禄4年(1561)の児玉生山合戦の戦功により北条氏政から感状をもらった(「役帳」)。太田康資【おおた・やすすけ】 1531〜1581 51歳
新六郎。資高の子。初め扇谷上杉家に仕え、のち父とともに後北条家に仕える。足立郡岡(朝霞市岡)に知行を持ち、岡城に居住した。永禄7年(1564)、北条氏康の行賞に不満を持ち謀反、安房に逃れた(「新編武蔵風土記稿」)。大野弾正【おおの・だんじょう】 生没年不詳
実名不祥。北条氏邦の臣。鉢形城の支城大野城、橋倉城主(比企郡都幾川村橋倉)(「秩父誌」)。大村与一郎【おおむら・よいちろう】 生没年不詳
徳川幕府の臣。慶長19年(1614)秩父郡栃本(秩父郡大滝村大滝字栃本)の関所の関尹の任務に就いた。大類行義【おおるい・ゆきよし】 生没年不詳
秩父行綱の次男。入間郡大類(入間郡毛呂山町大類)に館を構え、大類氏を称した。岡上主水助【おかがみ・もんどのすけ】 生没年不詳
実名不祥。後北条家家臣。小田原衆の1人。大高麗郷(日高市高麗本郷か)の代官を務める。入西郡沢木(坂戸市沢木)に11貫238文の知行を得ていた(「役帳」)。小笠原長重【おがさわら・ながしげ】 1650〜1732 83歳
兵助、佐渡守、侍従。小笠原長矩の子。中奥小姓、側小姓、寄合、書院番頭などを勤める。36歳の時兄長祐の養子となり三河吉田藩4万石を継ぐ。その後奏者番、寺社奉行、京都所司代を勤め、元禄10年(1697)老中就任とともに1万石加増され岩槻に転封となる。宝永2年(1705)西の丸老中となり、1万石加増される。同6年眼病のため致仕(「新訂寛政重修諸家譜」)。小笠原長熈【おがさわら・ながひろ】 1690〜1752 63歳
菅沼津八郎、長信、山城守。長矩の次男。岩槻藩6万石の藩主。内桜田門番役。宝永8年(1711)遠江掛川藩に転封(「新訂寛政諸家譜」)。小笠原信嶺【おがさわら・のぶみね】 1547〜1598 52歳
掃部大夫。小笠原信貴の子。初め武田、ついで織田信長に仕え、本能寺の変後徳川家康に仕える。尾張長久手の戦いでは酒井忠次のもとで尾張小牧城を守り、よくその任を果たした。家康の関東入国の際の知行割で、児玉郡1万石と本庄城(本庄市本庄三丁目)を与えられ、本庄藩を興した(「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」「新編武蔵風土記稿」)。小笠原信之【おがさわら・のぶゆき】 1570〜1614 45歳
小平次郎。酒井忠次の3男。本庄藩1万石の藩主。天正16年(1588)小笠原信嶺の養子となり、跡を継ぐ。関ヶ原の戦いでは信濃妻籠城に入り、当地の一揆勢と戦う。慶長12年(1607)伏見城の守衛を命じられ、その任に就く。同17年下総古河藩2万石に加増転封される(「徳川実記」「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」)。小笠原吉次【おがさわら・よしつぐ】 生没年不詳
三郎右衛門。忍藩家老。松平忠吉に仕える。幼少の忠吉にかわり領内支配を担当した。文禄3年(1594)利根川支流の改修と築堤をした。岡田十内【おかだ・じゅうない】 1794〜1871 78歳
柳風斎。足立郡下戸田(戸田市下戸田)の医者の息子として生まれる。江戸にて柳剛流を学び、江戸本郷森川町と戸田に道場を構え、門弟1400人と称した。大名家にも弟子が多い。岡田十松【おかだ・じゅうまつ】 1765〜1820 56歳
吉利。埼玉郡砂山村(羽生市砂山)の生まれ。4代前までは立派な武士の家系であったが、十松が生まれたときには帰農していた。15歳のとき志多見村(加須市志多見)の松村源六郎の内弟子となり神道無念流を学ぶ。のちに松村の師戸賀崎熊太郎の江戸道場に入門し23歳で免許皆伝となる。31歳で師より道場を譲られ「撃剣館」と名づけて盛況を極めた。弟子には斎藤弥九カ、秋山要助、江川太郎左衛門、渡辺崋山などそうそうたる顔ぶれが並んでいる。岡田静安【おかだ・せいあん】 1770〜1848 79歳
寅吉。足立郡下戸田(戸田市下戸田)に漢方医として開業。漢方医書の解読に努め、著書は34部79巻にも及んだ。剣術家岡田十内は息子。岡田惣右衛門【おかだ・そうえもん】 1765〜1826 62歳
柳剛流の祖。一橋家家臣。葛飾郡惣新田村字九郎新田(幸手市惣新田)の生まれ。はじめ心形刀流、ついで三和無敵流を学び、武者修業の後に柳剛流を創始する。柳剛流は足を撃つのに妙技があったという。岡部忠澄【おかべ・ただずみ】 ?〜1197
六郎太、六弥太。行忠の子。妻は畠山重忠の妹玉の井。平治の乱では源義朝のもとで奮戦。以後は源頼朝、義経に従い、一の谷合戦で平忠度を討ち取る武功を挙げ荘園5ヶ所を与えられ、その地頭職についた(「岡部氏系図」)。岡部忠綱【おかべ・ただつな】 生没年不詳
六郎大夫。猪俣政家の弟。榛沢郡岡部(大里郡岡部町普済寺)に居を構え、岡部氏の祖となった(「岡部氏系図」)。岡部行忠【おかべ・ゆきただ】 生没年不詳
忠綱の子。岡部氏2代(「岡部氏系図」)。岡谷清英【おかや・きよひで】 ?〜1584
加賀守。香丹の子。皿沼城主(深谷市上敷免)。深谷上杉氏に使え、「深谷四天王」「深谷の四宿老」などの1人であった。岡谷香丹【おかや・こうたん】 生没年不詳
加賀守。岡谷氏祖。延徳3年(1491)皿沼城(深谷市上敷免)を築き、深谷上杉氏に仕える。岡谷泰春【おかや・やすはる】 生没年不詳
左京亮。清英の子。深谷上杉氏の臣。上野猿ヶ京にて討死。岡安貞助【おかやす・ていすけ】 1827〜1909 83歳
正明、英斎。歳兵衛の子。葛飾郡惣新田村(幸手市惣新田)に生まれ、柳剛流を学ぶ。自邸に「聖武館」を建てて後身を育てる傍ら、実家を継いで農業にも精を出したという。奥貫友山【おくぬき・ゆうざん】 1705〜1787 83歳
五平次、正卿。川越藩領久下戸村(川越市久下戸)の名主。諸学に達し、近隣の師弟に教授していた。寛保の大洪水の際、私財を投げ打って被災者救済に尽力した。その範囲は40村、10万人以上であったという。大正時代に「贈従五位」が与えられた。小倉政光【おぐら・まさみつ】 ?〜1659
岩槻藩士。阿部定高に仕えるが、定高が病没すると殉死した。越生有弘【おごせ・ありひろ】 生没年不詳
右馬允。有行の子。源頼朝に仕え、戦功をあげた。越生有行【おごせ・ありゆき】 生没年不詳
新大夫。平安末期の人物。児玉資行の子。越生氏の祖。越生四郎左衛門【おごせ・しろうざえもん】 生没年不詳
実名不祥。高師直に属し、延元3年(1338)堺浦の戦いで北畠顕家を討ち取った。尾崎甚一郎【おざき・じんいちろう】 生没年不詳
岡部藩家老。安倍信古、信宝に仕える。忍小太郎【おし・こたろう】 生没年不詳
忍荘(行田市)の住人。正嘉2年(1258)6代将軍宗尊親王が鎌倉入りした時に、随伴する。忍五郎【おし・ごろう】 生没年不詳
忍荘の住人。三郎とは兄弟か。源頼朝に従う(「東鑑」)。忍三郎【おし・さぶろう】 生没年不詳
忍荘の住人。五郎とは兄弟か。源頼朝に従う(「東鑑」)。忍四郎【おし・しろう】 ?〜1221
忍荘の住人。承久の乱のときに宇治川で戦死。忍大丞【おし・たいじょう】 生没年不詳
実名不祥。成田氏一族。延徳元年(1489)成田親泰に忍館を追われる。小島重光【おじま・しげみつ】 生没年不詳
秩父基房の子。児玉郡小島(本庄市小島)に本拠を移し、小島姓を名乗った。小島光成【おじま・みつなり】 生没年不詳
重光の長男。小島館に居住した。小田顕家【おだ・あきいえ】 ?〜1539
伊賀守、大炊頭。常陸小田城主小田成治の次男。山内上杉憲政に従い私市城(北埼玉郡騎西町私市)に入城した。その後忍城主成田親泰の子助三郎家時を養子として私市城を守らせ、自らは支城種垂城(北埼玉郡騎西町上種垂)に隠棲した。小田家時【おだ・いえとき】 生没年不詳
助三郎、創三郎、伊賀守、朝興。忍城主成田親泰の子。私市城主小田顕家の養子。成田氏と行動を共にし、後北条家に仕える。永禄6年(1563)私市城は上杉謙信に攻められ落城、家時は降伏した。小田熊太郎【おだ・くまたろう】 1843〜1864 22歳
埼玉郡水深村(加須市常泉)の生まれ。本姓福島氏。自らを騎西城主小田氏の後裔と称する。尊皇攘夷の志士として越後・水戸・筑波などで奮戦するも捕らえられ斬首された。維新後靖国神社に合祀された。鬼窪繁政【おにくぼ・しげまさ】 生没年不詳
尾張守。埼玉郡江ヶ崎(蓮田市江ヶ崎)に居を構えたと伝えられる。恩田恒吉郎【おんだ・つねきちろう】 ?〜1865
羽生に生まれ、神道無念流を学ぶ。藤田東湖と親交があったという。