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比企則員【ひき・のりかず】 生没年不詳
 左馬助。比企郡中山(川島町中山)の土豪。天正18年(1590)松山城主上田憲定より参陣するよう命じられた。

比企能員【ひき・よしかず】 ?〜1203
 比企遠宗の甥。遠宗の死後その妻の養子となり、比企宗家を継ぐ。源頼朝に仕えて各地を転戦。また娘が源頼家に嫁ぎ、長男一幡をうんだ。北条家とは常に対立を続け、北条氏の専制を危惧した能員は挙兵しようとしたが、北条時政に先手をこされて謀殺された。

久長但馬守【ひさなが・たじまのかみ】 生没年不詳
 竜ヶ谷城主(秩父郡吉田町久長)。後北条家家臣。元亀2年(1572)武田軍の攻撃を受けるが撃退。主家滅亡後は上杉景勝に仕えた。

人見高経【ひとみ・たかつね】 生没年不詳
 小太郎。行経の子。承久の乱で活躍した。

人見政経【ひとみ・まさつね】 生没年不詳
 六郎。猪俣政基の3男。幡羅郡人見(深谷市人見)に居を構え、人見氏の祖となった。

人見光行【ひとみ・みつゆき】 ?〜1333
 四郎入道。人見城主(深谷市人見)。鎌倉幕府の御家人。河内赤坂城攻めで戦死。

人見行経【ひとみ・ゆきつね】 生没年不詳
 小三郎。政経の次男。源頼朝に仕える。

豹徳軒【ひょうとくけん】 生没年不詳
 実名不詳。松山上田氏の一族。後北条家江戸衆の1人。比企郡古郡、柏崎、今泉(東松山市古凍、柏崎、今泉)吉見郡久米川(吉見町久米田)、勝之内石井村(坂戸市石井)等に294貫50文を領していた(「役帳」)

平岩文国【ひらいわ・ぶんこく】 生没年不詳
 知雄。忍藩士。宝暦3年(1753)忍藩主阿部正允に命じられ、埼玉郡埼玉(行田市埼玉)の小崎沼に万葉歌碑を建立した。

平賀源内【ひらが・げんない】 1729〜1779 51歳
 讃岐高松の人。寒暖計・エレキテル等の発明で有名だが、本来は本草学者である。明和元年(1764)那賀郡野中村(児玉郡美里町)を訪れ、両神山などで石綿を発見、燃えない布「火浣布」を発明した。翌年より秩父中津川(大滝村)の鉱山・金山の開発に乗り出したが失敗、鉱石を運び出すための荒川通船のみ開通した。そこで源内は秩父の木材を木炭にし、荒川通船を使って江戸に運び出す事業を始めた。はじめは盛況だったが、販売路の確保に苦しみ徐々に下火になっていき、源内自身は安永8年(1779)江戸の獄中で病没した。

平柳蔵人佑【ひらやなぎ・くらんどのすけ】 ?〜1564
 岩付太田氏の家臣。足立郡平柳(川口市平柳)を領していた。国府台合戦で討死。

平山氏重【ひらやま・うじしげ】 ?〜1590
 伊賀守。檜原城主。後北条家家臣。天正18年(1590)秀吉軍によって城は落城、自刃した。

平山新左衛門【ひらやま・しんざえもん】 ?〜1590
 氏重の子。後北条家家臣。秀吉の小田原征伐の時は父とともに奮戦。落城後、自刃した。

平山長寿【ひらやま・ながとし】 生没年不詳
 後北条家家臣。他国衆の1人。入西郡小山(坂戸市小山)、平山(毛呂山町岩井)に16貫228文を領していた(「役帳」)

平山豊後守【ひらやま・ぶんごのかみ】 生没年不詳
 実名不祥。深谷上杉家家臣。男衾郡平山(大里郡江南町樋春)に館を構えた。

比留間与八【ひるま・よはち】 1768〜1840  73歳
 利恭。高麗郡梅原村(日高市梅原)の農民の子。若くして甲源一刀流に入門して、35歳のとき師匠の代師範となる。人望に厚く、近郊近在から入門者が多かった。俗に幕末の三剣士として、男谷信友・島田虎之助とならんで与八を挙げる人も多い。

広田直繁【ひろた・なおしげ】 生没年不詳
 式部大輔。木戸忠朝の兄。羽生城主(羽生市東五丁目)。古河公方足利晴氏に属し、後北条氏と争う。いったん羽生城を追われるが、関東管領上杉謙信の手により奪回、以後上杉家に仕える。