かすみがここまでさくらに執心するには理由がある。
 今から六年前の太正六年、まだ上京する前のかすみは、茨城の実家の近くにある中堅の商社で事務の見習いをしていた。
 当時十六歳のかすみは高等女学校を出たばかりであったが、仕事の覚えもよく、職場の先輩達からも評判がよかった。
 一年間の見習い期間も半分が過ぎた秋の頃、かすみのはたらく事務所に一人の若い男性が転属してきた。
「このたび、栃木県宇都宮支社から転属してきました、荒木和彦といいます。宜しくお願いします」
 歳はおそらく二十三、四。整った目鼻立ちは顔を合わすものに好印象をもたらし、綺麗にびしっと着こなしたスーツは彼の性格を存分に物語っていた。
 そして何よりも、彼から漂う匂い――体臭という訳ではなく、また香水をつけているわけでもないのだが、なぜか甘い、そう柑橘系の雰囲気を醸し出す匂いを相手に感じさせた。
 つまりがどこから見ても寸分の隙のないさわやか好青年、という訳だ。
 和彦が赴任してきてから、女性事務員達の話題は和彦のことで持ちきりとなった。
「ねえねえ、和彦さんって大学の商科出てるんですって」
「本当? やっぱり大学出てると違うわよねぇ」
「背も高いし、ハンサムだし、仕事もできるし」
「それに優しいのよねぇ、誰に対しても」
「やっぱり生涯の伴侶とするんなら、ああいう人じゃなくっちゃねえ」
「ああ、わたしとおつきあいしてくれないかしら?」
「ちょっと、抜け駆けはいけませんわよ」
「でも、あまり一人の女性とおつきあいするってタイプじゃないと思うんだけど。あなたはどう思う、かすみさん?」
 突然話を振られて、かすみはあわてて答える。
「え、ええ。そうですよね……」
「あらあ、かすみさん顔が赤いわよ。もしかして、あなたも……?」
 先輩事務員のからかいに、かすみはさらに顔を赤くした。
「かすみさんも入ってくるんじゃ、競争率高くなるわね」
「がんばってアピールしなきゃ」
 そんなことを話していると、
「こら、もう休憩時間は終わりだぞ」
 事務所長の声が聞こえてきた。
「あ、はーい」
「よし、じゃあ仕事に戻りますか」
 女性事務員達はめいめいの持ち場に戻っていく。
 かすみも自分の席へと戻ったが、考えていることは和彦のことばかり――
(好きな人にアピール……私にできるかしら……?)
 今までこんなに異性について考えたことはなかった。初めての気持ちに、激しく揺れるかすみの心。
 かすみが自分の気持ちに戸惑っている間にも、ほかの女性事務員達は和彦に対してアプローチを試みていた。
 しかし、そのことごとくが失敗――というか、和彦はほかの人たちと接する態度と同じような接し方をするのだ。
 これは決して和彦が悪気があってやっているわけではない。ただ恋愛に関して鈍感なだけである。
 しかしそうとはとらない女性もいるわけで――
「まったく和彦さんったらつれないんだから」
「そうよ。あれは絶対、好きな人がいるからだわ」
「あの和彦さんが好きになる人って、一体誰かしら」
「本当、くやしいったらありゃしない!!」
 そんな会話を聞きながら、かすみは自分の気持ちの高鳴りを抑えられずにいた。
(和彦さんの好きな人って、誰なんだろう……気になる……)
 いっそ直接聞いてみようか、とも思った。でもあまり話もしたことないのに、そんなこと聞くなんて、失礼だ……と、引っ込み思案な性格もあって、なかなか聞くことができずにいた。
 和彦が転属して三ヶ月が過ぎたある日、ふとしたことから、事務室内にはかすみと和彦の二人だけになった。
 黙々と仕事を続ける和彦を横目でちらちらとみるかすみ。
(なんか、なんでもないのに、緊張しちゃう……)
 息の詰まる心地がして、思わずかすみは立ち上がった。
 顔をあげ、かすみの方を見る和彦。
 瞬間、二人の視線が重なる。
「あ、あの、お茶でもいれますね」
 そう言ってそそくさと給湯室へと消えていく。
 急須にお湯をいれながら、かすみの胸は高鳴っていた。
(だめ……やっぱり、意識しちゃう……)
 二つの湯飲み茶碗をお盆に乗せ、かすみは給湯室から出てきた。
 和彦の机に来て、おずおずとお茶を差し出す。
「ど、どうぞ」
「あ、ああ、ありがとう」
 こころなしか、照れながら返事をしてお茶を受け取る和彦。
 和彦も事務所に二人きり、ということである程度意識しているのだ。
 かすみが自分の机に戻ろうとした、そのとき。
 ぐらぐらぐら……
 突然、事務所が揺れ始めた。
「え、えっ?」
「地震か!?」
 和彦がいすから立ち上がった。
 結構強い揺れが続いている。
 その時、かすみの後ろにある書棚が激しく揺れて、今にも倒れそうなのを和彦は見つけた。
「危ないっ!! 後ろ!」
「えっ?」
 かすみが後ろを振り向くと、書棚がかすみに向かって倒れてくる!!
「きゃぁぁっ!」
 恐怖心からか、かすみは両の目を閉じてしまう。
「かすみくんっ!!」
 かすみは背中に重みを感じて、そのまま床に倒れ伏した。
 がっしゃああああぁああん!!
 書棚のガラス戸が割れる音がした。
 しかしそのガラス片も、書棚の中身もかすみにはふりかかってこなかった。
「だ、大丈夫か、かすみくん……」
 声は、かすみの頭の上から聞こえてきた。
「和彦さんっ!?」
 なんと和彦はかすみをかばうため、かすみを押し倒したあと自ら書棚とかすみの間に割って入ったのだ。
「うっ、ううっ……」
 和彦のうめき声が聞こえてくる。
「大丈夫ですか、和彦さん……あっ」
 かすみは小さく叫んだ。
 ちょうど和彦がかすみを抱きしめた格好になっていたからだ。
 普段感じている柑橘系の香りが、より一層強く思える。
 状況も忘れて、顔を赤らめるかすみ。
 しかし、和彦の苦痛にゆがんだ表情を見て、すぐにまじめな顔つきに戻る。
「大丈夫ですか。今、なんとかしますから……」
「あ、ああ」
 しかし、本やら書類やらがぎっしり詰まった書棚が覆い被さっているのである。そうそう抜け出せるものではない。
「くっ、ううっ」
 体を左右に動かして、書棚をどかそうとするが、そのたびに和彦は苦痛の表情を強めていく。
 どうやら割れたガラス片が体に刺さっているようだ。
 和彦の苦しげな顔を見て、体を動かすことをやめるかすみ。
 抱き合った格好のまま、ふたりはじっとしたまま動かない。
 かすみははずかしくて、和彦の顔をまともに見れずにいた。
「かすみくん」
 不意に、和彦がかすみに声をかけた。
「は、はい……」
「ちょっと、聞いていいかな?」
「え、ええ」
 話しかけられてはいるものの、やはり和彦の顔を見ることができないまま、かすみは答えた。
「こんなときになんだけど……」
 一旦言葉を切ってから、和彦は再び口を開いた。
「最近、みんなの様子がおかしいんだ。特に女の子達が」
「えっ?」
 かすみは驚いて和彦の顔を見た。
 その目は、どこか悲しげに思えた。
「なんか、みんなよそよそしくなって……最初の頃と、態度が違うんだ」
「…………」
「前は、よく話しかけてくれたりもした。でも、最近のみんなは僕から遠ざかってるみたいなんだ」
「…………」
「どうしてなんだろう……。俺、なにか気に障るようなことしたのかな……」
「それは違います!!」
 思わず大声で叫ぶかすみ。
「――かすみくん……?」
「和彦さんは、何も悪くないんです。みんなが、和彦さんのことを誤解してるんです」
「誤解……って、どんな?」
「和彦さんがはじめこの事務所に来たとき、みんな和彦さんにあこがれてました。格好よくて、仕事もできて、優しくて……みんな、和彦さんとおつきあいしたいって思っていたんです」
「…………」
「何人かはその思いを和彦さんに伝えました。でも、和彦さんはその思いに気づかないで、今までのように接していました」
「それは……」
「和彦さんに悪気がないのはわかっています。でもみんなそれがわからないみたいで……」
「そうか……そうだったのか……」
 和彦は顔を横に背け、つぶやくように言った。
「和彦さん……」
 やがて、かすみの顔をみつめて、和彦は言った。
「俺は……一人の人を好きになるなんて、そんな気持ちは今ないんだ……」
「…………」
「君も知っての通り、俺は大学に通っていた。大学では気の合う仲間たちと出会い、毎日を楽しく過ごしていた……。
 校舎の近くに、小さな洋食屋があってね。値段の割には美味いからって、よく通ってたんだ」
 突然始まった和彦の昔話に、しかしかすみは黙って耳を傾ける。
「でも、そこに通い詰めた理由はもうひとつあった。
 その店に一人の給士(ウェイトレス)の子がいてね。可愛くて、性格もとてもいい子だったから、みんな彼女見たさに行ってたみたいなもんだった。まぁ、かくいう俺もそんな中の一人だったけどね。
 そのうち、彼女のことを本気で好きになった友人の一人が、思い切って告白したんだ。そしたら彼女、俺のことが好き、ってそいつに答えたんだ」
「…………」
「うれしかった。あこがれの彼女に『好きだ』って言ってもらえたんだから。
 でも、友達はそのことをひどく妬んでね。みんながその娘のことを狙ってたんだから、そうなってあたりまえなんだけどね。
 まぁ、しばらくすればギクシャクしたものも取れるだろうって、俺は軽く考えてた。
 だけど、仲間内の間にある噂が広まったんだ」
「ウワサ……ですか?」
「そう。『彼女が和彦のことを好きって言ったのは、なんとしてでも自分の彼女にしようとした和彦が無理矢理脅して言わせた』って噂が」
「そんな――!!」
「もちろん、俺はそんなことはしていないし、彼女も身に覚えがないわけだから、単なる僻みだって二人とも思っていた。
 でも、その噂が段々とエスカレートしていったんだ。俺の悪い噂が次々と出てきて、口づたいに広まっていく。もちろん、全部根も葉もないものばかりだったけどね。
 この時までも、俺は楽観的だった。彼女は俺のことを『好き』と言ってくれてたし、噂が全部出鱈目だってわかってくれてたから。
 けど、それも最初のうちだけだった。あんまり噂が長く続くもんだから、とうとう彼女もそれを信じ始めちゃったんだ。そして、次第に俺から離れていって……
 結局彼女の方から『別れてくれ』って言われちゃってね。友達の思惑は見事にあたったって訳だ」
「…………」
「それからかな、俺が一人の女性とつきあわなくなったのは。
またこんな事になるんじゃないか、って思ってね」
ここまで話し終えると、和彦は深いため息をひとつつき、
「……結局、俺は一人の女性より大勢の“友”を選んだんだ。友人達との関係が壊れるのが嫌だったんだな。
 ――いや、違う。怖かったんだ。仲間内からはずされるのが。一人になってしまうのが。
 ただ臆病なだけなんだ、俺は」
 自嘲気味に、しかしまた吐き捨てるかのように言う和彦。
 臆病で弱い自分がたまらなく嫌なのだろう。激しい自己嫌悪――
「だから俺はみんなと仲良く、毎日楽しく過ごせれば、それでいいんだ……」
 何か声をかけてあげたい。励ましてあげたい――かすみの中の母性の心が訴えかける。
 しかし、実際には声すらあげることが出来なかった。
 和彦がここまで自分のことを他人に話したのは、恐らくこれが初めてのことだろう。他人との関係を穏便に、何事もなくすませようとする人間は、自分のことを相手に伝えることにより、なんとか集団の輪の中に残ろうとする。しかし、自分の本当の気持ちを吐き出してしまうと、周りから白眼視されるのではないかと怯え、結局本心を包み隠したまま他人と接するようになる。
 かすみには苦悩する和彦の心が痛いほど理解できた。だからこそ――生半可な言葉では彼を“孤独”というメビウスの輪から助け出すことはできないのだ。
 いったい、どうすればいいの――
 果てしのない自問自答が、かすみの心で繰り広げられる。
 しかしその葛藤も、悔しそうに歯を食いしばる和彦の顔を見た途端、跡形もなく消え去った。
 今はそんなことを考えてる場合じゃない。とにかく、和彦さんの心を救ってあげなくちゃ――
「……和彦さん」
 唐突に口を開いたためか、和彦は驚いた風にかすみを見た。
 自らを映し出したかすみの瞳には、強い意志を持ち、それでいて優しい光があふれていた。
「私は――和彦さんは和彦さんらしくすればいいと思います」
「――えっ?」
「私、考えたんです。なんで和彦さんはそんな自分を犠牲にするような考え方をするのか、って。
 友達がいなくなるのが怖い、ということは、自分が傷つくことが怖い、ということだと思うんです。
 そういう人って、きっと他人の痛みもよくわかるんですよ。まるで自分の事みたいに」
「…………」
「それって、とても『優しい』心を持ってないと出来ないと思います。和彦さんはそういう強い『思いやり』の心を持ってるんですよ。だから、そういう風に考えてしまうんです」
「……そうだろうか」
 信じられない、という風に小さな声で応える和彦。
 そんな和彦を勇気づけるように、かすみは力強く語りかける。
「そうですよ。だから和彦さん、もっと自分に自信を持って下さい。そうすれば、いつかきっと、本当の『仲間』に出会うことが出来ますよ。ね?」
 そういって、にっこりと微笑むかすみ。つられて、和彦も笑顔になる。
「ありがとう、かすみくん。なんだか気が楽になったよ」
「いえ、そんな……」
 和彦の優しい言葉に顔を赤らめるかすみ。
 それを見て、やはり照れくさくなったのか、視線をそらしてしまう和彦。
 二人の間に沈黙が落ちた。
「そ、そろそろここから出ないか? 大分痛みも引いてきたし」
 照れくさそうに言う和彦の言葉に、かすみは今の状況を思い出した。
 二人はまだ書棚の下敷きになったままなのである。
「あっ、そうですね。それじゃ……」
「まずかすみくんが出てくれ。それまで俺が、書棚をおさえてる」
「でも、けがしてるのに……」
「なに、このくらい平気さ。さ、早く」
「はい」
 和彦は全身に力を入れて腕を伸ばした。ちょうど腕立て伏せで腕を伸ばした状態だ。
 和彦の体が浮いたことでできた隙間からかすみは横へ抜け出し、立ち上がって書棚を持ち上げた。
「うんっ……」
 しかし女性一人で持ち上げるにはいささか重すぎた。ほんの数センチ、持ち上がっただけである。
 だがそのおかげで和彦も書棚の下敷きから解放され、かすみとともに書棚を持ち上げ始めた。
 何とか書棚を元の位置に戻したかすみは、すぐに和彦の傷の手当てに取りかかった。
「ツーッ、しみるー」
 傷口に消毒液をぬられ、和彦はたまらず声を上げた。
「ふふふ、がまんしてくださいね」
 微笑みながら手当てをするかすみ。
 この時かすみは、和彦と二人きりでいることの幸せを感じていた。
 だがこの後も、かすみは和彦に告白しないまま見習い期間を終え、東京に出ることになった。
 和彦の苦しむ様子を見て、いてもたってもいられず、自分の気持ちをすべてぶつけたかすみ。結果として、それは和彦の孤独を癒すこととなった。しかし、和彦が本当に他人を、一人の女性を愛するようになるには、まだしばらく時間がかかる――かすみにはそんな風に思えた。
 他人をいたわる心はたしかに素晴らしい。しかし、それだけでは男女の関係というのは決してうまくはいかない。そこに『信頼』の気持ちが生まれなければいけないからだ。自らの心と、相手の心。二つの心が互いに互いを信じ合い、そして助け合っていかなくてはいけない。ただ相手をいたわるだけでは、相手の気持ちを無視した愛の押しつけになってしまう。
 いままで言い様のない孤独感を味わってきた和彦には、ある種の猜疑心が生じ始めている。それを完全に克服するには、時間をかけ、多くの人とふれあうことが大切なのだ。だが、和彦がその気持ちに気づいたとき、自分はもうここにはいない――そんな想いが、かすみの初恋に終止符を打たせた。
 こうして終わったかすみの初恋。このときの様子が、今のさくらの境遇に似ていることが、かすみのさくらに対するおせっかいにつながっているのだ。
 ――私がかなわなかった恋を、ぜひさくらさんにかなえてほしい――
 かすみの気持ちは、このことでいっぱいになっていた。

 しかし、さくらと大神の間に何の進展も見られないまま、数週間が過ぎた。