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内藤正勝【ないとう・まさかつ】 1643〜1694 52歳
 平八郎、上野介。政季の子。旗本の生まれ。慶安4年(1651)内藤正次の養子となり、28歳で遺領5千石を継いだ。御小姓、御小姓組番士、御書院番頭、御留守居を歴任。天和2年(1682)1千石加増、元禄6年(1693)大坂定番就任と同時に1万石加増され、比企郡赤沼(鳩山町赤沼)に陣屋を築いて赤沼藩を興した(「寛政重修諸家譜」「公儀被仰出番日記 内藤家」)。

内藤正友【ないとう・まさとも】 1663〜1711 49歳
 仁左衛門、式部少輔。正勝の子。赤沼藩1万6千石の藩主。大坂定番。元禄16年(1703)信濃岩村田藩に転封される(「寛政重修諸家譜」「公儀被仰出番日記 内藤家」)。

内藤正成【ないとう・まさなり】 1528〜1602 75歳
 甚一郎、四郎左衛門。甚五郎左衛門の子。徳川家家臣。弓矢の達人であったという。家康の関東入国の際、埼玉郡に5千石を与えられた。

永井直陳【ながい・なおのぶ】 1698〜1762 65歳
 主馬、伊豆守、伊賀守。直敬の3男。岩槻藩3万2千石の藩主。奏者番。初め父の遺領のうち、埼玉郡千5百石を賜る。兄尚平の養子となって跡を継いだ。宝暦6年(1756)美濃加納藩に転封となる(「新訂寛政重修諸家譜」)。

永井尚平【ながい・なおひら】 1697〜1714 18歳
 左衛門、大学、伊賀守。直敬の次男。岩槻藩3万2千石の藩主。若くして死去(「新訂寛政重修諸家譜」)。

永井直敬【ながい・なおひろ】 1664〜1711 48歳
 尚富、大学、伊賀守、伊豆守。尚庸の子。14歳で父の遺領河内国2万石を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄。下野烏山藩、播磨赤穂藩、信濃飯山藩と転封を重ね、正徳元年(1711)岩槻藩3万2千石の藩主となるが、その年の内に死去(「寛政重修諸家譜」「新訂寛政重修諸家譜」)。

長井正実【ながい・まさざね】 生没年不詳
 豊前守。後北条家、甲斐武田家などに仕える。金鑚御岳城主(児玉郡神川村二ノ宮)(「武州古文書」)。

長尾顕方【ながお・あきかた】 生没年不詳
 孫五郎、尾張守。上野総社長尾氏。顕忠の養子。山内上杉氏が憲房・顕実に分かれて対立した時、顕方は顕実側について鉢形城に拠った。

長尾昭国【ながお・あきくに】 生没年不詳
 四郎左衛門。長尾城主(秩父市黒谷)。

長尾景春【ながお・かげはる】 1443〜1514 72歳
 四郎左衛門尉。景信の子。上野白井城主。白井長尾氏。山内上杉家家臣。父の死後、上杉氏の家宰を自分が継ぐものだとばかり思っていた所、主君上杉顕定は叔父の忠景を家宰に任命、この事に憤慨した景春は鉢形城(寄居町鉢形)に篭もり挙兵、武蔵、相模、上野の在地武士2、3千余を味方に付けた。文明8年(1476)五十子(本庄市)にて扇谷・山内上杉連合軍を撃破 優勢な戦いを進めたが、扇谷上杉家の家宰太田道灌が景春派の豊島氏を破ると状況は一変、次第に劣勢になり、文明10年には鉢形城が陥落、同12年には最後の拠点日野城も落ち、景春は古河公方足利氏を頼った。景春が再び白井城に入るのは永正2年(1505)の事である(「松陰私語」)。

長尾忠景【ながお・ただかげ】 ?〜1501
 修理亮、尾張守。景仲の子。景信の弟、景春の叔父。総社長尾氏。武蔵守護代。兄の死後山内上杉氏の家宰職を継ぐが、甥の景春が反乱を起こすとこれと争う。景春が鉢形城を追われると鉢形城主になった。

中島宗蔵【なかじま・むねぞう】 1763〜1829  67歳
 義武。那珂郡白石郷(児玉郡美里町白石)の中島文左衛門の長男。逸見義年に師事して甲源一刀流を学ぶ。郷里の領主である成瀬因幡守が長崎奉行として任地に赴く際に、とくに登用されたという。

永田外記【ながた・げき】 生没年不詳
 実名不祥。扇谷上杉家家臣。横瀬根小屋城主(秩父郡横瀬村横瀬)。

永田寛長【ながた・ひろなが】 生没年不詳
 弥兵衛。可清の孫。関東郡代伊奈氏に仕える。伊奈忠治が寛永年間に赤山に陣屋を移した際、足立郡土屋(大宮市土屋)の陣屋を与えられ、以後名主として定住した。

長野対馬【ながの・つしま】 生没年不詳
 成田家家臣。小田家時とともに上杉謙信の攻撃から騎西城を守る。

長野豊山【ながの・ぶざん】 1783〜1837 55歳
 友太郎。伊予の生まれ。大坂で中井竹山に儒学を学び、39歳の時川越藩に招かれ藩校で教授した。門人に保岡嶺南がいる。

中村家時【なかむら・いえとき】 生没年不詳
 二郎。時重の子。

中村時重【なかむら・ときしげ】 生没年不詳
 貫首。丹時房の子。秩父郡中村(秩父市中村)に居を構え、中村氏の祖となった。

中村時季 → 大河原時季

中村時経【なかむら・ときつね】 生没年不詳
 丹党中村一族。

中村時信【なかむら・ときのぶ】 生没年不詳
 右馬允。家時の子。源頼朝に仕えた。

中村万五郎【なかむら・まんごろう】 1784〜1860  77歳
 七郎右衛門、政敏。埼玉郡東方村(越谷市東方)の生まれ。戸賀崎暉芳に神道無念流を学び、極秘印可を伝授される。以後自邸に道場を構え、門人は三百人ほどであったという。著書に『剣道口達』

中村弥右衛門【なかむら・やえもん】 生没年不詳
 岩槻藩士。高力清長のもとで浦和代官を勤め、針ヶ谷(浦和市針ヶ谷)に陣屋を構えた。

中村幸松【なかむら・ゆきまつ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。御馬廻衆の1人。川越仙波(川越市仙波町付近)、江戸筋前野などで21貫500文を領していた(「役帳」)。

中村吉照【なかむら・よしてる】 生没年不詳
 岩槻藩士。高力清長に仕えていた。

中山家範【なかやま・いえのり】 ?〜1590
 後北条家家臣。入間郡中山(飯能市中山)に館を構えていた。天正18年(1590)八王子城内で戦死。

中山幾之進【なかやま・いくのしん】 1825〜1885  61歳
 吉寿。足立郡吉蔵新田(川口市吉蔵新田)の中山多七郎満足の長男。父多七郎は岡田奇良に剣を学び、柳剛流中山派をたてた人物。幾之進は父に剣術を学び、諸国漫遊の武者修業の旅に出た。すこぶる人望が厚く「中山先生」と慕われ、門人は千人を超えていた。

奈倉加賀【なくら・かが】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。御馬廻衆の1人。入西郡下河原(毛呂山町下川原)で16貫886文の知行を得ていた。

奈倉重則【なくら・しげのり】 ?〜1569
 下野守。秩父郡奈倉(秩父郡小鹿野町下小鹿野字奈倉)の住人。

夏目実基【なつめ・さねもと】  生没年不詳
 豊後守、定基。もと有田氏。関東管領上杉氏に仕える。上野藤岡城主だったが、八幡山城主(児玉郡児玉町八幡山)に任じられる。永禄年間、後北条氏に降伏する。

奈良高長【なら・ただなが】 生没年不詳
 成田助高の3男。大里郡奈良(熊谷市中奈良)に居を構え、奈良氏の祖となる。

成田顕泰【なりた・あきやす】 1423〜1484 62歳
 下総守。資員の子。成田氏13代。山内上杉家家臣。長尾景春の乱に際しては太田道灌の援助もあり忍の地を守った。堀越公方足利政知より越中富山城を与えられたという記述もある。文明12年(1480)より諸国行脚に旅立ち、安房の里見義豊のもとで客死した(「年略」)。

成田家時【なりた・いえとき】 1364〜1420 57歳
 五郎。成田氏11代。家綱の子。応永18年(1411)龍淵寺(熊谷市上之)を創建。6万貫の領地を所有していた。

成田氏長【なりた・うじなが】 ?〜1595
 左馬助、左衛門尉、下総守。長泰の子。成田氏17代。忍城主(行田市本丸)。初め上杉謙信、のち後北条氏に仕える。後北条氏の麾下になってからは近隣の羽生城攻めや駿河攻めにも参加した。天正18年(1590)秀吉の大軍が小田原にせまると、350騎と共に小田原城に篭城、忍城は城代成田泰季がまもった。忍城には石田三成を大将とする2万5千の兵がが攻め寄せたが落ちず、小田原落城後に開城。氏長は蒲生氏郷預かりとなる。その後氏郷のもとで軍功を挙げ、天正19年(1591)下野烏山城3万7千石を与えられる。妻は太田資正の娘。男子無く、弟の長忠に家督を譲って死去(「北条記」「断家譜」「藩翰譜」「野史」)。

成田長忠【なりた・おさただ】 ?〜1616
 左馬助、左衛門尉。別名泰親。成田氏18代。長泰の子。後北条家家臣。秀吉の小田原征伐の際は兄氏長とともに小田原城にいた。役後は寄居城主となる。兄の死後遺領下野烏山3万7千石を継ぐ。大坂の役にも出陣した(「断家譜」)。

成田甲斐姫【なりた・かいひめ】 1562〜1645 84歳
 氏長の娘。母は横瀬成繁の娘。文武ともにすぐれ、天正18年(1590)石田三成によって忍城が攻められた時も、自ら戦闘になって奮戦、敵将を討ち取る功をあげている。開城後父とともに蒲生氏郷のもと、岩代福井城に住むが、そこで家臣浜田十兵衛が謀反を起こすと、留守中だった父氏長のかわりに浜田を討ちとる。その後豊臣秀吉に気に入られ、秀吉の側室となる。淀殿との仲は良く、幼い秀頼の守り役をまかせられる。慶長14年(1609)秀頼の子を生む。豊臣家滅亡後、徳川家康の孫であり、秀頼の正室であった千姫の口添えで、甲斐姫とその娘は鎌倉の東慶寺に入った。以後2人とも尼としてその生涯を過ごした。

成田五郎【なりた・ごろう】 生没年不詳
 源頼朝の臣。助高のことか。寿永3年(1184)一の谷合戦の戦功により行田の地を賜る。

成田資員【なりた・すけかず】 1398〜1429 32歳
 五郎左衛門尉。家時の子。成田氏12代。

成田助実 → 玉井助実

成田助成【なりた・すけしげ】 生没年不詳
 成田氏一族と思われるが、系図にはない。寿永2年(1183)、内行田に館を造る。

成田助高【なりた・すけたか】 生没年不詳
 大夫。道宗の子。成田氏5代。武蔵国司。上之(熊谷市上之)に成田館を建設(「鎌倉武鑑」)。

成田助綱【なりた・すけつな】 生没年不詳
 七郎。助広の子。成田氏7代。文治5年(1189)、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従う。

成田助広【なりた・すけひろ】 生没年不詳
 太郎。助高の子。成田氏6代。一の谷合戦に戦功があった(「鎌倉武鑑」)。

成田資泰【なりた・すけやす】 ?〜1221
 助綱の子。成田氏8代。承久の乱のとき宇治川で戦死。

成田助行【なりた・すけゆき】 生没年不詳
 小三郎。行田道忠の弟助任の子。元弘2年(1332)、隠岐に流される後醍醐天皇に供奉した。

成田高長 → 奈良高長

成田親泰【なりた・ちかやす】 1465〜1524 60歳
 中務少輔、下総守。顕泰の子。成田氏15代。山内上杉家家臣。延徳元年(1489)忍大丞を滅ぼし、忍城を築く(「関東古戦録」「山吹日記」)。

成田長親【なりた・ながちか】 生没年不詳
 泰季の子。父の死後、忍城代となって石田軍の侵攻を防いだ。

成田長泰【なりた・ながやす】 1508〜1586 79歳
 太郎五郎、下総守。親泰の子。成田氏16代。忍城主。初め上杉憲政、ついで上杉謙信に仕えるが、謙信の関東管領就任式のとき、八幡太郎義家以来の慣習として、長泰は謙信の前で下馬しなかったが、それを知らない謙信が、無礼として長泰を打擲。怒った長泰は後北条家に走った。後北条家では他国衆として相模中郡大島郷にて83貫800文を領していた(「役帳」「北武八誌」)。

成田道宗【なりた・みちむね】 生没年不詳
 幡羅四郎。家忠の子。成田氏4代。一の谷合戦に戦功があった(「鎌倉武鑑」)。

成田泰季【なりた・やすすえ】 ?〜1590
 肥後守。親泰の子。天正18年(1590)石田三成らが忍城に攻め寄せると、城代としてこれにあたるが戦中に病死。

成田行隆 → 別府行隆

成田助三郎 → 小田家時

難波田因幡守【なんばだ・いなばのかみ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。天正18年(1590)には松山城大将として豊臣軍にあたるが、降伏して豊臣軍の鉢形城への案内役を勤める。

難波田高範【なんばだ・たかのり】 生没年不詳
 小太郎。金子家範の子。入間郡蓮田(富士見市下南畑)に定住し、難波田氏の祖となった。

難波田憲重【なんばだ・のりしげ】 ?〜1546
 弾正忠。別名善銀。難波田城主(富士見市下南畑)。扇谷上杉家家臣。天文7年(1538)北条氏綱によって河越城が落された時、松山城主だった憲重は主君上杉朝定をむかえるために出陣。その際、寄せ手の将山中主善と「古今和歌集」の和歌を引用した「松山城風流歌合戦」で争った。同15年の河越夜戦で討死。

難波田与太郎【なんばた・よたろう】 生没年不詳
 実名不詳。上田朝直の家臣。入東郡棟岡(志木市宗岡)で30貫を領していた(「役帳」)