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大道寺政繁【だいどうじ・まさしげ】 1533〜1590  58歳
 孫九郎、駿河守。盛昌の子。後北条家家臣。上野松井田・河越城主。川越城下では城下町経営に努めた。秀吉の北条征伐の時は松井田に篭城するも、攻め寄せる前田利家・上杉景勝に降伏。直後、豊臣軍先鋒として忍城攻めに参加。戦後、不忠として秀吉に切腹を命じられた。後北条家では1212貫257文の知行を得ていた(「役帳」「加納文書」)。

大道寺盛昌【だいどうじ・もりまさ】 生没年不詳
 蔵人、駿河守。後北条家家臣。鎌倉代官・河越城代を勤める(「快元僧都記」)。

大福御前【だいふくごぜん】 1541〜1593  53歳
 藤田康邦の娘。北条氏邦の正室となるが、後北条家滅亡後に自刃した。

平良文 → 村岡良文

高木広正【たかぎ・ひろまさ】 1536〜1606  71歳
 長次郎、七郎右衛門、九助、筑後。重正の子。徳川家康の臣。姉川などで軍功を挙げ、天正18年(1590)比企郡、下総葛飾に2千石を給される。慶長5年(1600)忍城代となり4千6百石。

高木正綱【たかぎ・まさつな】 1568〜1632  65歳
 九助。広正の子。父についで忍城代となる。

高木正則【たかぎ・まさのり】 生没年不詳
 九助。正綱の子。1633年より忍城代を勤める。松平信綱が忍城主となると、旧書記組番頭となり、父祖伝来の4600石を守った。

高坂刑部【たかさか・ぎょうぶ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。吉見郡高坂(東松山市高坂)の住人というが不明。

高島秋帆【たかしま・しゅうはん】 1798〜1866 69歳
 四郎太夫、茂敦。高島流砲術の祖。長崎町年寄等を経て鉄砲方に就任。武州徳丸が原で砲術演習を行い、同地は以後高島平と呼ばれるほどの評判となった。蛮社の獄の余波により逮捕投獄されたが、のちに岡部藩へ預かりとなった。秋帆は岡部で3年余りを過ごし、ペリー来航直後に赦免され、講武所砲術指南役となった。弟子に江川英龍など。

高瀬高広【たかせ・たかひろ】 生没年不詳
 弾正。室町中期の青鳥城主(東松山市下青鳥)と伝えられる。

高野佐吉郎【たかの・さきちろう】 1803〜1884  82歳
 秩父郡大野原(秩父市大野原)の堀口小四郎の3男として生まれ、秩父絹の検査役を務める高野孝右衛門の養子となる。14歳のとき江戸に出て中西忠兵衛に入門、小野派一刀流を学ぶ。帰郷して道場を開き、晩年に『一刀流聞書』を著した。

多賀谷家政【たがや・いえまさ】 生没年不詳
 左衛門尉。金子家忠の次男。埼玉郡騎西荘多賀谷(騎西町内田ケ谷)の地頭となり多賀谷姓を称した。

高柳文献【たかやなぎ・ぶんけん】 ?〜1829
 信之、新重郎、菜英。道祖土氏の裔で足立郡川田谷村新倉(桶川市川田谷)の高柳家を継いだ。鈴木荘丹に師事して御蔵秘事の秘法を印可され、さらに吉田神道を学び両者を融合した「大道教」を創始した。文献は江戸本郷に大道教学舎を建て布教に尽力し、『神代巻紐鏡』等を著した。

高山繁文【たかやま・しげふみ】 1649〜1718  70歳
 伝右衛門。川越藩秋元家家老として1200石を知行している。先祖は秩父の武士という。川越芋、川越平(絹織物)などの特産品生産を推進した中心人物と見られている。また松尾芭蕉に師事したといわれている。

滝瀬七左衛門【たきせ・しちざえもん】 生没年不詳
 安保実光の子。賀美郡滝瀬(本庄市滝瀬)に館を築いた。

滝瀬季忠【たきせ・すえただ】 生没年不詳
 猪俣党横瀬重政の子。榛沢郡滝瀬(本庄市滝瀬)に居住し滝瀬氏の祖となる。

武田信実【たけだ・のぶざね】 ?〜1575
 兵庫頭。武田信虎の7男。つまり信玄の弟である。比企郡横田(比企郡小川町横田)に館を構え、また騎馬15騎浪人組313人を率いて雁坂口(大滝村)を守った。長篠で戦死。

武田信俊 → 川窪信俊

竹内啓【たけのうち・ひらく】 ?〜1867
 節斎。飯能の生まれ。権田直助の門人で、薩摩浪士隊出流山挙兵隊長となり足利藩栃木陣屋を襲撃した。しかし幕府勢の反撃に遭い敗北。啓は捕らえられ松戸で斬罪に処された。

建部凉袋【たけべ・りょうたい】 1720〜1774 55歳
 津軽の人。俳諧、和歌、絵画に通じ、与謝蕪村と並べ称されるべき程の文化人である。生涯を旅の身に置いていたが享保2年(1742)から3年間埼玉郡小林村(菖蒲町小林)に滞在し、近隣の文人豪商から多くの支持を得た。現在秩父礼所研究の基本文献とされる『秩父礼所三十四所観音霊験円通伝』はその著作とされている。

田島新六【たじま・しんろく】 1795〜1879 85歳
 忍藩領大田村(行田市下須戸)の人。安政2年(1855)に利根・荒の両川が出水した時に貯蔵の穀物を放出して数千人を救う。この結果郷士に抜擢され、後には番頭次席で300石の食禄を得た。

田代三喜斎【たしろ・さんきさい】 1465〜1537  73歳
 江春庵。古河公方に仕えた医師。川越の生まれとも入間郡田代(越生町)の生まれとも言う。15歳で出家ののち足利学校で医学を学び、23歳の時大陸に渡る。帰国後古河公方の招きにより古河へ移り、関東各地を廻った。最後には帰郷して医に専念したという。連歌師宗長は三喜斎を「関東の名医」と評した。弟子に初代曲直瀬道三がいる。

多田昌綱【ただ・まさつな】 1567〜1605  39歳
 徳川家康の臣。昌俊の子。多田氏は武田氏に仕えた重臣。昌綱は小牧・上田・小田原戦などで活躍。関東入国にともない、鉢形(比企郡寄居町)に知行を得る。慶長6年(1601)徳川義直の傅役となる。

橘守部【たちばな・もりべ】 1781〜1849  69歳
 国学者。伊勢の出身。ほぼ独学で国学を学ぶ。29歳の時葛飾郡内国府間(幸手市内国府間)に移住し、3年後地元の豪商田村清八の娘政子と結婚、以後約20年当地で暮らす。天保の四大国学者の1人。

伊達房実【だて・ふさざね】 ?〜1626
 与兵衛。後北条家家臣。伊達城主(大宮市大和田一丁目)。岩付城主太田氏房の家老。秀吉の小田原征伐に際しては岩槻城に2千の兵とともに篭城する。開城後徳川家康に仕え、足立郡大和田村(大宮市大和田)に250石を与えられた(「北条記」)。

玉井助家【たまのい・すけいえ】 生没年不詳
 助実の子。玉井氏2代。鎌倉初期の人物。

玉井助実【たまのい・すけざね】 生没年不詳
 四郎。成田助高の4男。大里郡玉井(熊谷市玉井)に居を構え、玉井氏の祖となる。

玉井太郎【たまのい・たろう】 ?〜1221
 兵衛。実名不詳。助家の子。承久の乱のとき宇治川で戦死。

田村重次【たむら・しげつぐ】 生没年不詳
 茂兵衛。稲垣重太の家臣。男衾郡須賀広(大里郡江南町須賀広)の稲垣氏の陣屋を陣代として守った。

多米元興【ため・もとおき】 ?〜1577
 新左衛門、周防守、権兵衛。元益の子。後北条家家臣で武蔵青木城主(神奈川県横浜市)。諸足軽衆の1人。松山筋石橋(東松山市石橋)等に148貫314文を領していた(「役帳」)