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加々爪忠澄【かがづめ・ただずみ】 1586〜1641  56歳
 甚十郎、民部少輔。正尚の子。徳川秀忠の臣。関ヶ原、大坂の陣に従軍。目付、町奉行、大目付を歴任。石高1万石をもって吉見郡高坂(東松山市高坂)に居住した。京橋の大火災の消火中に火に巻かれて焼死。

加々爪直澄【かがづめ・なおずみ】 1610〜1685  76歳
 甚十郎。忠澄の子。御小姓組頭、同番頭、書院番頭、大番頭、寺社奉行。高坂の地に1万3千石を知行していた。天和元年(1681)嫡子直清の処罰に連坐して土佐に配流、同地で死去。

加治家季【かじ・いえすえ】 ?〜1205
 次郎。加治一族。二俣川の合戦で戦死。

加治家治【かじ・いえはる】 生没年不詳
 丹党。高麗郡加治荘(飯能市)を本拠に置いていたが、児玉郡金窪(児玉郡上里町金久保)に金久保城を築いて、定住した。

春日景定【かすが・かげさだ】 生没年不詳
 兵庫助。岩付太田家家臣。中丸城主(大宮市南中丸)。

春日部家縄【かすかべ・いえなわ】 生没年不詳
 左近、蔵人。時賢とともに後醍醐天皇に供奉した(「太平記」)。

春日部実景【かすかべ・さねかげ】 ?〜1247
 鎌倉幕府の御家人。埼玉郡春日部(春日部市粕壁)の住人。三浦泰村の乱に加わり、幕府軍との戦闘で討死。

春日部実高【かすかべ・さねたか】 生没年不詳
 平安末期から鎌倉前期の人物。文治元年(1185)の壇の浦の戦いに参加した。

春日部重行【かすまべ・しげゆき】 生没年不詳
 左衛門尉。実景の孫。新田義貞に従い、活躍する。重行は「市祖(春日部市の祖)」と称され、市民から今でも尊敬の念を集めている。

春日部時賢【かすかべ・ときかた】 生没年不詳
 治部少輔。南北朝の争乱において、後醍醐天皇に供奉した(「太平記」)。

春日部又四郎【かすかべ・またしろう】 生没年不詳
 室町幕府に仕え、埼玉郡春日部郷(春日部市粕壁)に居住していた。文明12年(1480)越後津有郷を与えられ、移り住んだ。

春日行元【かすが・ゆきもと】 生没年不詳
 八郎。足利尊氏に仕える。観応3年(1352)に足立郡桶川郷内菅谷村(上尾市菅谷)、足立郡野田(浦和市野田)、足立郡中丸(大宮市南中丸)を与えられ、中丸城に居城した(「明照寺寺伝」)。

片岡源太左衛門【かたおか・げんたざえもん】 生没年不詳
 実名不祥。太田氏房に仕える。天正18年(1590)岩槻城に篭城する。

勝瀬孫六 【かつせ・まごろく】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。河越衆の1人。入東郡勝瀬(富士見市勝瀬)などで62貫文を領していた(「役帳」)。

加藤太郎左衛門【かとう・たろうざえもん】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。河越衆の1人。川越仙波内日影分等(川越市仙波町、大仙波、小仙波、富士見町など。日影分は不明)で248貫文を領していた(「役帳」)。

加藤古風【かとう・ひさかぜ】 1766〜1848  83歳
 十左衛門。角之丞の三男。江戸の生まれ。忍藩の藩校進修館の教授。歌道に優れ、黒沢翁満とともに忍藩歌道の全盛時代を築いた。名声高く加賀藩が高禄で召し抱えようとしたが、二君に仕えるのを好まず辞退したという。著書に『類題和歌補闕』(「武州埼玉郡忍行田史料拾遺」)

金井筑前守【かない・ちくぜんのかみ】 ?〜1625
 実名不祥。児玉郡七本木(児玉郡上里町七本木)一帯を支配した土豪。仏門に帰依し、多くの寺を建立した(「新編武蔵風土記稿」)。

金窪行親【かなくぼ・ゆきちか】 生没年不詳
 左衛門尉。丹党。児玉郡金窪(児玉郡上里町金久保)の土豪。建保元年(1213)鎌倉幕府の侍所所司に任ぜられる。

金子家忠【かねこ・いえただ】 1138〜1216  79歳
 十郎。家範の子。鎌倉幕府の御家人。保元の乱で初陣。源平合戦で数々の功績をたてた(「保元物語」)。

金子家範【かねこ・いえのり】 生没年不詳
 鎌倉時代の人。村山党。入間郡金子(入間市金子)に移り住み、金子氏祖となる。

金子紀伊守【かねこ・きいのかみ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。秀吉の小田原征伐の時、松山城に軍監として入城する。

金子駿河守【かねこ・するがのかみ】 生没年不詳
 家範の5代後胤。足立郡大成(大宮市大成)に居住していた。応永33年(1426)月江正文禅師に帰依し、幻公庵主と称した(「新編武蔵風土記稿」「普門院開創記」)。

金子高範 → 難波田高範

金子忠成【かねこ・ただしげ】 生没年不詳
 十郎兵衛。平安末期の人物。高谷城主(小川町高谷)。

金子近則【かねこ・ちかのり】 生没年不詳
 余一。家忠の弟。兄とともに屋島の戦いに従軍、源義経に従って戦った。

金田則綱【かねだ・のりつな】 生没年不詳
 式部。菖蒲城(南埼玉郡菖蒲町新堀)を築城した。

狩野左近【かのう・さこん】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。松山衆の1人。吉見郡岩殿(吉見町御殿か)に9貫500文を給されていた(「役帳」)。

加納下野守【かのう・しもつけのかみ】 生没年不詳
 村山党。入間郡に拠り、宮寺(入間市宮寺)に居住した。

狩野泰光【かのう・やすみつ】 生没年不詳
 大膳亮、飛騨守。後北条家御馬廻衆の一人。評定衆・奏者をつとめる。吉見郡高本、小八林(大里郡大里村高本、小八ツ林)等に513貫430文を領していた(「役帳」)

栢山左衛門尉【かやま・さえもんのじょう】 生没年不詳
 埼玉郡栢山(南埼玉郡菖蒲町下栢山)に居住した鎌倉幕府の御家人。仁治2年(1241)に武蔵野の新田開発を命じられる。

川窪信俊【かわくぼ・のぶとし】 生没年不詳
 新十郎。武田信実の子。はじめ甲斐武田家、滅亡後は徳川家康に仕える。しばらくは父の所領であった比企郡横田(比企郡小川町横田)にいたが、天正19年(1591)児玉郡金久保(児玉郡上里町金久保)8000石に領地替えされ、金久保陣屋に移った。

河越重員【かわごえ・しげかず】 生没年不詳
 三郎。重頼の3男。鎌倉幕府の御家人。重要な役職を歴任した。

河越重隆【かわごえ・しげたか】 生没年不詳
 秩父重頼の次男。入間郡河越荘の荘官となり、はじめて河越姓を名乗った。

河越重頼【かわごえ・しげより】 生没年不詳
 太郎。能隆の子、重隆の孫。源頼朝に仕える。娘を源義経に嫁がせるなど、頼朝の信頼は厚かったが、義経に追討令が下るとこれに連坐し、所領を没収されてしまった。

河津省庵【かわづ・しょうあん】 1800〜1852  53歳
 卓。省安とも。相模の生まれ。忍藩医。医学を緒方洪庵、シーボルトに、漢学を芳川波山に学ぶ。弘化4年(1847)忍に来訪、地元の商人大島屋喜兵衛の願いにより、忍で医者を開業することになった。省庵は腑分け(解剖)や東日本で初の種痘を行い、のちに藩医となる。著書に『医療大全』『医療発揮』。

河連国久【かわつら・くにひさ】 生没年不詳
 主計助。古河公方足利家家臣。足利政氏に仕える。足立郡箕田郷河連(鴻巣市川面)を領していた(「喜連川文書」)。

川俣貞次【かわまた・さだつぐ】 生没年不詳
 主膳正。埼玉郡川俣城主(羽生市)。1583年に城を失い出羽最上家に仕えた。

川村菊千代【かわむら・きくちよ】 生没年不詳
 実名不詳。後北条家家臣。江戸衆の1人。江戸新倉(和光市新倉、下新倉、本町)等に178貫560文を領していた(「役帳」)

川村碩布【かわむら・せきふ】 1750〜1843 94歳
 入間郡馬場村(毛呂山町)の酒屋。家業の傍ら俳諧を好み、69歳の時請われて春秋庵5世となり江戸へ移住した。碩布は凋落していた春秋庵の再建に尽くし、化政期大衆俳諧の代表的指導者となった。

河原高直【かわら・たかなお】 ?〜1184
 太郎。埼玉郡河原(南河原村)の住人。源平合戦で弟次郎と共に活躍したが、兵庫生田の合戦で弟とともに戦死。

河原忠家【かわら・ただいえ】 ?〜1184
 次郎。高直の弟。兄とともに行動し、兄とともに戦死。