北辰一刀流(後)


●女流剣士・千葉さな子

 千葉さな子(佐那)という女性がいる。父は千葉定吉。つまり北辰一刀流祖・千葉周作の姪である。

 1838年に生まれたさな子は12歳のときから剣を父に、薙刀を伯父周作に学びめきめきと腕を上げていき、16歳のときには讃岐高松藩松平家江戸屋敷で薙刀術を披露している。このことが評判となり、以後「桶町千葉の鬼小町」と渾名されたという。

 このさな子の婚約者が、かの坂本龍馬なのである。

 龍馬は1853年の春に土佐から江戸へ出て、土佐藩邸に逗留しながら桶町千葉道場に通い始めた。時に龍馬19歳、さな子16歳。この時、すでに中目録の腕前であったさな子に初稽古の龍馬が手も足も出ず完敗したという逸話があるが、当時女性が男性と竹刀稽古をするということはありえないのでこの話は創作であろう。が、さな子が相当の腕前であったこと、そして次第に二人が引かれあっていったことは事実である。1年足らずの修行を終えて龍馬は土佐へ帰国するが、1856年に再び江戸へ出向。2年間千葉道場で修業し、1858年正月には『北辰一刀流長刀兵法』免許を授かるのである。

 普通北辰一刀流の免許皆伝書には周作の名前のみ(桶町道場の場合は定吉と重太郎も)記されているのだが、龍馬が授けられた『北辰一刀流長刀兵法』免許には上記三人のほかに『千葉佐那女、千葉里幾[りき]女、千葉幾久[いく]女』の三姉妹の名が記されている。これはさな子たちが長刀術の系統を受け継いでいるからなのだろうか、それとも帰国間近の龍馬がさな子のことを忘れないためにと無理に名前を記してもらったのか……今となってはその真意は分からない。

 ともあれ、龍馬はさな子に熱愛したのである。1863年8月14日に龍馬から土佐の姉、乙女に宛てられた手紙にさな子のことが熱く語られている。

 その後、二人(正確には坂本家と千葉家)は婚を約し、龍馬とさな子は結ばれて幸せに暮らす……はずであった。しかし、国事に奔走する龍馬はなかなか一所にとどまろうとせず、音信も途絶え途絶えになり、そして1867年11月15日、京都近江屋[おうみや]で刺客に襲われ、2日後に絶命してしまう。享年33歳。愛する人に先立たれたさな子は龍馬が残していった黒木錦の袷[あわせ]の片袖を大切に持ちつづけ、生涯独身で通した。明治以降は華族女学校(現在の学習院)の舎監を勤めたり「千葉灸治院」を開いて灸治療で生計を立てていたが、1896年10月15日、59歳でこの世を去った。墓は甲府市の清運寺にあり、その墓石には『坂本龍馬室』の五文字が刻まれている――

 ここまで読んでぴんときた方もいるかと思うが、この千葉さな子こそ『サクラ大戦』の真宮寺さくらのモデルではないかと思うのである。

 北辰一刀流の女剣士であり、恋愛に対して一途に、ただ一人の人を想い続ける――少なくとも私のイメージする真宮寺さくら像と重なるのである。

 そこで私はこの千葉さな子という女性をもっと深く知るために、さな子が主人公の小説『龍馬のもう一人の妻』(阿井景子著/文春文庫)を購入し読んでみた。

 しかし。この小説を読み終えて持った感想は、読む前に予想していたものとは違うものだった。

 確かにこの小説には、龍馬ただ一人を愛し、生涯独身を貫くさな子の姿が描かれている(小説自体は千葉家に奉公に出ていた女中・よしの視点で描かれている)。しかしそれはさな子にとって決して幸せな人生ではなかった。龍馬が二度とさな子の前に姿をあらわすことがないのがその理由だが、これは何も死んでしまったから、という訳ではない。龍馬がさな子への愛を失ってしまったからである。

『竜馬がゆく』などを読んだ方はご存知かと思うが、龍馬にはお龍[りょう]という妻がいた。龍馬とお龍が内祝言を挙げたのは1864年の5月。すでにさな子との婚約が成った後のことである。その年の12月に江戸の千葉家を訪れた龍馬はさな子と一言も交わさず、目を合わせることもせずに退出する。自分への愛がすでに冷め切っていることを悟ったさな子は龍馬から婚約の証としてわたされた黒木錦の袷をはさみで切り裂いてしまう。龍馬への憎しみをこめて。龍馬のすべてを忘れようとして。しかし、さな子にはできなかった。断ち切ろうと思っても龍馬への思いは断ちきれなかった。そして片袖だけを残し、薄幸の人生を歩んでいく――

 詳しい内容は実際に読んでいただくとして、自分がここで思ったのは、もし大神が誰かと結ばれたとき、他のみんなはどんな思いをし、以後どのようになってしまうのか、ということである。 

 さな子=さくらであるとするならば、さくらもまた同じような人生を歩むことになるのか。それとも、別な幸せの道を歩んでいくのか……。勿論この様な事は本編では描かれはしない。『奇跡の鐘』のヒロインを決めるときでも、他の彼女たちは選ばれた女性を明るく祝福するだけである。それにファンの心理としては、彼女たちのこんな哀しい姿は見たくない。

 読了の後、なんだか非常に悲しくなってしまった。前回の引きとはいささか異なる内容となってしまったが、以上で千葉さな子の紹介と『サクラ』との関係についてのまとめとさせていただく。

 話が少しそれたので、次項ではまた北辰一刀流の話に戻します。

●『サクラ大戦』の中の北辰一刀流

▽破邪剣征・桜花放神

 さくらの初期の必殺技として、そして裏の北辰一刀流の奥義として『サクラ大戦』で特別な位置にある技である。
 媒体によってグラフィックの動きが違うため、特にこれといった型はないようである。刃による直接の打撃ではなく、凝縮した霊力を放出するために刀を媒体として使用している、といった感じなのだろう。
『桜華絢爛』第三幕では具体的に描写されており、それをもとに『北辰一刀流組遣様口伝書』から探してみたがどうも該当する技はないようである。また千葉周作が著した『剣法秘訣北辰一刀流』にある「剣術六十八手」中にもなかった。

 なお、学研の『帝劇スタア』において現在の北辰一刀流宗家、小西真円一之師範がOVAでの型を披露しているが、そこでの説明には「腰溜めにした剣を、気合とともに突き出す。剣の先から閃光が走り、敵を撃破する」とある。

▽抜付[ぬきつけ](立四本)

『1』のプロローグ、上野公園に現れた脇侍をさくらが一刀両断にした技である。
『北辰一刀流組遣様口伝書』の「北辰流居合 立四本」の一本目の技で、「刀を構ながら左足を踏込み抜付て、上段より切込時、右足を踏込む。刀を鞘におさめ足を崩」とある。居合の基本の技と言えるだろう。

▽抜付[ぬきつけ](坐四本)

 OVA『桜華絢爛』第四幕の一シーン、さくらが帝劇の舞台上で真剣を抜き放ち披露している型である。
『北辰一刀流組遣様口伝書』の「北辰流居合 坐四本」の一本目の技で、居合術の中では基本の技である。同書には「坐したる右足を出しながら、敵の小手の程合へ抜付、振上げ、上段より左手をかけ、切込み刀を鞘におさめ足を直す。」と記されている。お持ちの方はOVAのこの場面と照らし合わせていただきたい。途中大神の顔アップのため全体像は確認できないが、おおむねこのとおりであることがわかると思う。 

 ちなみに、この技は何も北辰一刀流だけのものではない。「基本の技」と前述した通り、他の流派でも「初発刀[しょはつとう](夢想神伝流居合)」「前(無双直伝英信流居合)」「抜付の事(力信流居合術)」と名こそ違え伝えられており、いずれも一本目という基本中の基本として位置付けられている。さらに1969(昭和44)年制定の「全日本剣道連盟制定居合」でも「前」と称してその一本目に据えられている。

 以上、北辰一刀流の解説でした。次回は「天海」について。


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