北辰一刀流(資料編)


●<史料 文久三年八月十四日付(推定)坂本龍馬書簡>

   此は(な)しハまづゝゞ人にゆハれんぞよ。すこしわけがある。

 長刀順付ハ千葉(定吉)先生より越前老公(松平春嶽[しゅんがく];福井藩主)へあがり候人江、御申付ニて書たるなり。此人ハおさなというなり。本ハ乙女といゝしなり。今年廿六[にじゅうろく]歳ニなり候。馬によくのり釼[つるぎ]も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみゝゝの男子よりつよく、先たとヘバうちにむかしをり候ぎん(坂本家の女中)という女の、力料[りきりょう][ばかり]も御座候べし。かほかたち平井(加尾;龍馬の初恋の人と言われる)より少しよし。十三弦のこと(琴)よくひき、十四歳の時皆傳[かいでん]いたし申候よし。そしてゑ(絵)もかき申候。心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず。夫ニいたりてしづかなる人なり。ものかずいはず、まあゝゝ今の平井ゝゝ。

 ○先日の御文難有拝見。杉山へ御願の事も拝見いたし候。其返しハ後よりゝゝゝ。
  十四日
   乙様

(カッコ注、強調筆者)     

●資料1 千葉家系図

●資料2 千葉さな子関連年表

西暦(年) 和年号 月日 出 来 事
1835 天保6 11/15 坂本龍馬、坂本八平の次男として土佐で誕生
1838 天保9
千葉さな子、定吉の長女として江戸で誕生
1849 嘉永2
さな子、剣術及び薙刀術を学び始める
1851 嘉永4
北辰一刀流免許皆伝を受ける
1853 嘉永6
さな子、高松藩江戸屋敷で薙刀術を披露
4月 龍馬、剣術修行のため江戸へ。桶町千葉道場に入門する
1854 安政1 6月 龍馬、約1年の修行を終え帰国
1856 安政3 龍馬、再び江戸へ出向。千葉道場に学ぶ
1858 安政5 1月 龍馬、「北辰一刀流長刀兵法目録」を授かる
6月 千葉里幾[りき]、労咳[ろうがい]のため死去
9/3 龍馬帰国
1862 文久2 8/22 土佐藩を脱藩した龍馬が千葉道場に着く
10月 龍馬、千葉重太郎と勝海舟を殺害に向かうも傾倒、海舟の弟子となる
12/17 海舟、龍馬、重太郎ら軍鑑「順動丸」にて西上
1863 文久3 1/18 龍馬ら江戸へ戻る
2月 千葉幾久[いく]、関宿[せきやど]藩士清水小十郎と結婚
2/25 龍馬、海舟とともに大阪へ。出立前にさな子に黒木錦の袷[あわせ](片袖のみ?)を預ける
8/14 龍馬、土佐の姉乙女に宛ててさな子についての手紙を出す
1864 元治1 4月 このころ龍馬、京都でお龍と出会う
9月 龍馬とお龍が内祝言をあげる
12月 龍馬、千葉家を訪れるもさな子とは話をせず
1866 慶応2 1/24 寺田屋事件。龍馬、お龍に助けられる
2月 龍馬とお龍が正式に結婚
1867 慶応3 8月 重太郎、浪士を匿った咎で謹慎の処分を受ける
11/15 龍馬、京都近江屋にて中岡慎太郎とともに暗殺される
12月 重太郎の謹慎が解ける
1882 明治15 1/16 重太郎、京都府に御用掛として出仕。さな子も京都へ移る
9月 さな子、華族学校(学習院)の舎監となる
1884 明治17
この頃より、さな子は「自分は龍馬の許嫁であった」としきりに言いふらすようになる
1885 明治18 5/7 千葉重太郎、京都にて息を引き取る
1887 明治20 2月 幾久、交通事故にあい死亡
2/15 さな子、学習院を退職
1888 明治21 8月 さな子、千住に「千葉灸治院」を開業
1892 明治25 3/7 さな子、甥の勇太郎(幾久の長男)を養子とする
1895 明治28 3月 養子勇太郎、労咳にて死去
1896 明治29 10/15 さな子、千住でひっそりと息を引き取る

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