北辰一刀流(前)


『サクラ大戦』では破邪の剣法として非常に重要な意味を持つこの北辰一刀流。実在するこの剣法は一体どのようなものなのだろうか。

 小説『サクラ大戦前夜』等でも語られている通り、北辰一刀流は幕末期に千葉周作成政によって開かれた流派である。江戸は神田お玉が池に玄武館という道場を開き、門弟は三千人を越すほどの隆盛を極めた。当時の江戸は町道場が盛んに開かれていたが、その中でも桃井春蔵[もものいしゅんぞう]の士学館(鏡新明智流[きょうしんみょうちりゅう])、斎藤弥九郎[さいとうやくろう]の練兵館(神道無念流[しんどうむねんりゅう])とともに、周作の玄武館は江戸三大道場とよばれ、柳生道場につぐ規模を誇った。

●流祖・千葉周作について

 流祖千葉周作は1793(寛政5)年陸奥国気仙[けせん]郡気仙村(現在の岩手県陸前高田市)に生まれた、と『前夜』には書かれているが、生年に関しては1794(寛政6)年、生誕地は気仙村のほかに栗原郡荒谷[あらや]村(宮城県栗原郡花山村)、二戸[にのへ]郡荒沢村荒屋などの諸説があり定まっていない。父は幸右衛門成勝[こうえもんなりかつ](忠左衛門成胤[ちゅうざえもんなりたね]とする説あり)といい、磐城中村藩で北辰夢想流の剣術指南役をつとめていた。なお、系図の上では一応桓武平氏流千葉氏の末裔ということになっている。

 幼名は寅年生まれのため中国で寅を意味する「於菟[おと]」松という(この説話を信じるならば生年は1794年となる)。幼少のころから父に剣を学び、次第に天稟を伸ばしていった。1809(文化6)年に一家で下総松戸に移住、これは剣術の見込みのある周作と弟定吉にもっと腕を磨いてもらうためにと父親が考えたことだという。周作はそこで旗本喜多村石見守正秀[きたむらいわみのかみまさひで]に仕えながら、中西派一刀流の浅利又七郎義信[あさりまたしちろうよしのぶ]の門下生となる。次第に頭角をあらわしていった周作は23歳で免許皆伝を許され、浅利又七郎の師匠である中西忠兵衛子正[なかにしちゅうべえしせい]に入門。こちらもわずか3年で免許皆伝となり、又七郎の姪、綾と結婚し、浅利道場の場主と小浜藩酒井家の剣術指南役を受け継いだ。26歳のときである(以上は主に『大日本剣道史』によるものだが、周作22歳のときに中西子正から伝書を与えられた史料が存在する。となれば、浅利門下時代にすでに中西門でも学んでいたことになる)。

 このように順風満帆な人生を歩んでいった周作だが、1820(文政3)年、養父浅利又七郎との剣の道に対する意見の相違から、すべての役目を辞して独立してしまった。その後周作は下野・上野・甲斐・武蔵・駿河・遠江・三河・信濃などを武者修業して回ったが、その間誰一人として周作に勝てるものはいなかったという(『前夜』ではこの時期奥州へも足を伸ばし、そこでさくらと出会った事になっている)。1822(文政5)年、上州高崎にて北辰一刀流を興そうとするが、この時は地元に広く流布している馬庭念流[まにわねんりゅう]と諍いをおこし、伊香保神社への掲額をあきらめている。しかしその年の内に江戸に戻り、品川に玄武館を開いた。神田お玉が池に移るのは1825(文政8)年のことである。その後は順風満帆を極め、1835(天保6)年に水戸藩より16人扶持を許され、41(天保12)年には弘道館師範として100石で正式に水戸藩に召抱えられる。そして1855(安政2)年、62歳の生涯を閉じたのだった。

●北辰一刀流の流儀について

『前夜』では司馬遼太郎の『北斗の人』から「剣法から摩訶不思議なの言葉を取り除き、近代的な体育力学の場で新しい体系を開いた」という一文を引用して、北辰一刀流の合理的な部分を説明した。それは型の簡素化と技術の多様化に加え、初心者にもわかりやすい明解な教授法につながっている。新興の流派である北辰一刀流が栄えたのはまさにこの点である。先節にて中西派一刀流との決別を書いたが、その基である小野派一刀流の内容(組太刀と試合稽古を重視するというもの)はほぼそのまま北辰一刀流に取り入れている。よって特に新しい流儀、というわけでもない。ただし時代感覚に卓越したものを持っていたので、煩雑を極めていた伝授の位を3段階とし(従来は8段階)他流派の半分の期間で上達できると評判になったという。

●北辰一刀流門下の人々

 このように隆盛を極めた北辰一刀流からは、多くの達人が輩出され、時代に貢献した。以下それらの人物を挙げてみよう。

・千葉定吉[ちば・さだきち](1812〜1879)
 名は政道。周作の弟である。常に兄と行動をともにし、北辰一刀流を極めた。京橋桶町に道場を開いたため「桶町千葉」とか「小千葉」などと称されていた。1851(嘉永4)年に鳥取藩に召抱えられる。『東藩史稿』には定吉のことを次のように記している。「定吉、文武両技に達し、頗る才幹あり、観(周作のこと)を補翼して内外の事を処理す、北辰一刀流の興隆を致せしもの、定吉与りて力ありと云――」

・千葉栄次郎[ちば・えいじろう](1833〜1862)
 名は成之。周作の次男である。父に似た体格の持ち主で、14、5歳の頃には玄武館の小天狗と呼ばれ、18、9歳で早くも名人と噂されるほどになった。当代の名人達人と呼ばれる剣豪相手に9割もの勝率を誇った、まさに天才である。父とは別に水戸藩に出仕、大番頭まで昇進したが30歳で惜しくも病死してしまった。ちなみに周作には4男1女がいたが、男子はいずれも若死している。4人とも剣の腕が立っていただけにまことに残念なことである。

・千葉重太郎[ちば・じゅうたろう](1834〜1885)
 名は一胤。定吉の長男。父に剣と薙刀を学び、また学問もよく収めたという。父に次いで鳥取藩に出仕し、剣術教授頭取という諸奉行の列に加えられるまで出世した。維新後は開拓使、のちに京都府御用掛として剣術を教えていた。

・森要蔵[もり・ようぞう](1810〜1868)
 名は景鎮。玄武館四天王の一人。熊本藩士。土浦藩および飯野藩に剣術指南役として仕える。戊辰戦争の際、幕府方として戦い会津で戦死。

・庄司弁吉[しょうじ・べんきち](1819〜1864)
 名は秀嶽。玄武館四天王の一人。水戸藩士。一時期宍戸藩に出仕していたが、水戸藩内抗争鎮撫を命じられ失敗、斬罪に処された。

・塚田孔平[つかだ・こうへい](1819〜1869)
 名は真智。玄武館四天王の一人。信州の生まれ。藤田東湖[ふじたとうこ]や会沢正志斎[あいざわせいしさい]と交わるなど、時代への見識も高く、松代藩に召し出された。

・海保帆平[かいほ・はんぺい](1822〜1863)
 名は芳郷。安中藩士。玄武館の天才と呼ばれた剣術家。14歳で玄武館に入門し、19歳で大目録免許皆伝となった。のち水戸藩に500石で仕える。

・井上八郎[いのうえ・はちろう](1816〜1897)
 名は清虎。日向国延岡の生まれ。藩の重臣を父に持ちながら、妾腹であったため豆腐屋の息子として少年時代を過ごし、15歳のときに単身江戸へ来て玄武館に入門した。28歳で免許皆伝を受け、幕府講武所に出仕。以後も順調に出世を重ね、ついには歩兵奉行遊撃隊頭兼帯となり、5000石にまで出世した。

・真田範之助[さなだ・はんのすけ](1834〜1864)
 八王子の農民出身。水戸天狗党の乱が起こると玄武館の塾生とともに馳せ参じるがわずかに遅く、隠れていたところを新微組に見つかり殺された。

・伊東甲子太郎[いとう・かしたろう](1835〜1867)
 常陸志筑藩士。江戸で北辰一刀流を極めたのち新撰組に入隊するがやがて脱退。最後は新撰組の闇討ちにあい果てた。

・清河八郎[きよかわ・はちろう](1830〜1862)
 名は正明。出羽庄内の商人の生まれ。剣を千葉周作、学問を東条一堂[とうじょういちどう](玄武館の隣に塾を開いていた)に学び、攘夷論者として諸国を歴訪。一時期幕府に追われていたが後許される。攘夷決行の二日前に佐々木只三郎[ささきたださぶろう]に殺害された。

・坂本龍馬[さかもと・りょうま](1835〜1867)
 土佐藩郷士。ご存じ幕末の風雲児。藩から許可をもらった2年間の間に桶町の千葉道場に通い北辰一刀流を学んだ。22歳の時「北辰一刀流長刀免許」を得る。

 以上北辰一刀流についてざっと述べてきたが、これらが『サクラ大戦』の世界とどのように関わっているのだろうか。ここで筆者は、北辰一刀流と『サクラ』を結びつけるある重要な人物がいるのではないかと想定した。その人物とは――

 長くなったので次回へ続く(爆)


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