雪が降っていた。

灰色の雲に覆われた空から、
小粒の雪が、帝都の残骸である大地に降り注ぐ。

陸軍の銃火器による攻防も鎮まり、
辺りは妙な静けさを保っていた。

グシュルルルゥゥゥ……

ただれる酸を吸い上げる、汚らしい唸り声をあげて、
一匹の降魔がのし歩く。

奴も相手の様子をうかがっているのか、
壊滅した住宅街を見渡している。

それはまるで、勝者が残党狩りでも行うかのように、
ふてぶてしく、そして愚かだった。

藤枝「ハアアァァァッ!!!」

その時、降魔の膝元、ガレキとなった建物の影から、
回転する藤枝が飛び出してきた。

降魔は蝙蝠に似た羽根を広げて、相手を威嚇するも、
どうやら藤枝の俊敏性についていけないらしい。

でんぐり返しのように、華麗に転がる藤枝の刀が、
降魔の右足を切り捨てる。

ガアアアアアアアァァーーーーッ!!!

けたたましい雄たけびを上げて、
降魔は態勢を崩し、泥を弾き飛ばしながら倒れた。

そこへ、一気に飛び跳ねた藤枝が降魔の頭部へと飛びかかる。

藤枝「トァアッ!!」

降魔の腕に足をかけ、自分の身長の何倍もある降魔に乗った彼女は、
ためらうことなく右腕を振り上げ、その刃を突き刺す。

そしてもう一度腕を振り上げ、藤枝は顔に返り血を浴びながら、
降魔の眼球を睨んだ。

藤枝「……ッ!!」

そこに映っているのは、何とも恐ろしい形相の自分だった。

藤枝がひるむ。
ひるみ、そして体が突然緊張する。
相手は帝都を破壊した忌むべき存在・降魔であるのに、
どうしてもトドメがさせない。

藤枝がそうこうしている間に、
頭部に致命傷を受けたはずの降魔が立ち上がった。

藤枝「ああ…ッ!!」

弱々しく、情けない声をあげて藤枝は降魔の体上から振り落とされ、
腰から大きく地面にぶつけてしまった。
とてつもない痛みが走る。

しかし、それよりも彼女が気にしたのは、
目の前で逆光に照らされる降魔である。

何と恐ろしき生命力であろうか。

切り落としたはずの右足は、グジュグジュと音を立てて再生し、
突き通したはずの頭部は今も風穴が開いている。

それでも屈する事のない奴は、
高々と鋼鉄のツメを掲げて、へたり込む藤枝に歩き寄る。

藤枝「い…嫌ぁ…」

喉の奥から搾り出したかのような声をあげて、
藤枝は頭を抱え込んだ。

山崎「セィヤアアアアァァァァーー!!!」

その時、山崎の声が耳に響く。

降魔の背後より現れた山崎は、
降魔が降りかえるよりも早く斬りつけた。

傷の増える降魔は一歩後ろに踏みとどまり、山崎を睨む。

山崎は負傷した左肩から大量の出血をしていて、
新しい傷を右足の太ももにつけていた。
そして、呼吸が大きく乱れている。

もはや重荷でしかなくなった右足を引きずりながらの戦闘が、
彼の体力を確実に削っていたのである。

山崎「………ヌンッ!!」

山崎の再度の攻撃は、確実に奴の急所である胸部を捕らえ、
奴の体からは噴水のように緑の血液が吹き上がった。
同時に降魔の体から黒い瘴気が抜けていく。

ようやく動きも鎮まり、降魔は絶命したようである。

山崎は息を切らして刀を下げ、辺りを見渡した。
怯えた藤枝は崩れ落ちた降魔の四肢ですら恐怖の目で見つめている。

その光景は明かに、強い霊力帯びた女性の姿ではない。
彼女は正直この戦争に怯えていた。
すでに陸軍兵の死を何十回も見せつけられたからである。

彼女も同じくして息を切らしていた。

それを肌で感じながら、辺りを見渡していた山崎の額にジットリと汗がにじむ。
藤枝に、山崎は振り返ることなく声をあげた。

山崎「あやめッ!後方に飛べッ!!」

突然、命令を下す山崎に、あやめはわけがわからなかった。
彼女がしどろもどろしている内に、彼女に振り返った山崎が苛立つ。

山崎「何をしているんだ、早くッ!!」

その強い口調は緊張感すら漂わせていた。
それをようやく気付いた藤枝は、クッと苦痛に耐えるような声をあげて、
後ろのビルの残骸に飛び乗った。

すると、山崎は刀を握り直した。
カチャリと金属音が鳴り響き、辺りにしばしの静けさが戻る。

気流も正常に戻り、
山崎や藤枝が戦っている間、あれ程荒れていた雪も下方へ降った。

だが、その静けさも一時で
彼らにとって、絶望的な光景が広がった。
彼らに見える建物の残骸の後ろから何十匹もの降魔が現れたのである。

山崎「………」

その時、山崎は微動だにせず、
藤枝は目を見開いた。

藤枝「そ、そんな……」

顔を青ざめる藤枝はペタリと座り込み、
戦意を喪失した。
降りつける雪が結びあげた髪に冷たい。

山崎「……諦めるな、あやめッ!!」

そんな彼女を瀕死のはずの山崎は一喝する。

その言葉に、あやめは顔を震わせて拒絶した。
すでに平常心など打ち砕かれている。

山崎は懐に持った魔神器の鏡に手をかけた。

山崎「………ッ」

目の前に広がる降魔の群れ達をキッと睨みつけ、
刀を振り上げる。

彼の闘志に反応して、魔神器は赤く光を輝かせ始めた。
この魔神器が持つ者に力を与える事は知っている。
善なる者には善の力を、悪なる者には悪の力を。
それだけを米田中将から聞いた。

山崎の精神力が魔神器の鏡に伝わり、
増大する霊力が反射するように彼の元へと返っていく。
山崎はまさしく小規模の魔神器発動の儀式を行っていたのである。

山崎「俺達は貴様らなどに屈しない……ッ!!」

そう自分に言い聞かせるかのように山崎は言い、
そして赤い輝きを帯びた霊力が彼を包み込む。
やがて彼の瞳からプツンと何かが切れ、山崎は降魔の群れの中に飛び込んで行った。

降魔の中に、赤い人の形をしたものが斬りかかる。
その遠くで、藤枝は戦意を喪失したままだった。

藤枝「………」

刀を落とし、呆ける彼女の耳に
肉の切れる音が連続して聞こえてくる。

それは若き陸軍兵達が無謀に降魔に飛びかかり、
玉砕されていた時に似ている。

藤枝「……ひぃ!」

小さく悲鳴をあげて、
思わず頭を抱えて、縮こまる。
恐怖は確実に彼女を苦しめた。

山崎の行う殺戮の音が聞こえるたびに、
彼女は怯え、涙を流した。

それは赤くなった頬を伝い、
冷えてはパサパサと氷の粒になって消えていく。

降り続く雪が体の至る所で積もり、
孤独で寂しさがこみ上げてくる。
指先が冷たくて動かない。

藤枝の脳裏は真っ白になっていた。

………恐い…

そう彼女はもらす。

ぬぐい切れない血を降魔と人間両方同じく浴びている。
この身は今すぐに剥がしたい程、
藤枝自信にとって汚いものに感じられた。

それは死よりも辛いもので、
死よりも安易な逃げ道だった。

山崎「………どうした……?」

不意に聞こえた山崎の静かで澄んだ声。

心の深海の底で
眠る藤枝の意思に赤い声が解け込む。

静かに静かに彼女は呼び覚まされ、
藤枝はピクリと頭を上げて目を見開いた。

藤枝「………ッ!!」

言葉が出ない。
山崎の全身が放つ赤い霊気にあてられて、
藤枝の霊気が呼び覚まされた。

目の前には、赤い霊気に包まれて、
銀髪をふわりと宙に舞わせた山崎が微笑んでいた。

藤枝にとって初めて見る安らかな表情である。
しかし、それでも彼女は安堵しなかった。
赤い霊気の影響下、目前に顔を近づけて漂う山崎の顔には返り血が付着していて、
四肢には自分自身の赤い血と降魔の返り血らしい緑の血が
混ざり合って軍服を異色に染めていた。

藤枝「しょ、少尉…?」

やっと藤枝の口から言葉が出る。

山崎には微力な力しか残されていないようだった。
静かに上着を脱ぎ、そしてそれを座り込んだ藤枝の肩にかける。

山崎「………」

そしてそのまま、彼の四肢を包んでいた赤い霊気は途切れ、
ドサリと山崎は藤枝の横に崩れ落ちた。

藤枝「少尉ッ!?」

あれほど安らかだった山崎が自分の横に倒れ、
彼女はただただ驚く。
藤枝は動けなかった事も忘れて、
うつぶせに倒れる山崎へと体を向かせ、
その銀髪に手を伸ばそうとした。

さっきまでの強い何かは、彼の四肢から抜け消えたようだ。
もう何も感じられない。

今、目の前にこうして倒れているのはただの人。
霊力に守られず、霊力に隠される事の無い、本当の山崎真之介。

藤枝「…………」

すっかり平常心を取り戻した藤枝の手の平がゆっくりと
山崎の頬へと伸びる。

何の反応も無い山崎はまるで死んだようだ。

顔にかかった泥を落とさんと、山崎の頬へと
藤枝は手を伸ばし続けた。

藤枝「……あ…」

藤枝の手が山崎の頬に触れようとした時、
山崎の妙に綺麗な手が動き、彼女の手を掴んだ。

彼は生きていたのである。

山崎は軽く掴んでいた藤枝の手から手を離すと、
クルリと身を回して仰向けた。

山崎「………」

彼は無言で、強く澄んだ表情のまま、
ただただ雪の降り来る空を見つめた。

痛みを訴えるわけでもなく、
静かに黙っているだけの山崎に、正直、藤枝は安堵する。

恐らく辺りにはまだ降魔がいるだろうが、
なんだか、それもどうでも良くなってしまった。
それほど彼女の立場は壮絶で、
山崎の容態は悪いのだろう。

藤枝「……少尉?」

あまりにも黙ったままの山崎に、
藤枝はしびれを切らして呼びかけた。

山崎はそれをしっかりと聞き入れているにも関わらず、
起き上がろうとしない。
そのままに口を開いた。

山崎「……あやめ…」

冷たい風に前髪を吹かれ、藤枝は遠くを見ていたが、
振返る。

山崎「…見たか?俺の放った赤い霊気……」

藤枝「………」

返答に困る藤枝だったが、
無解答であること自体が『見ていた』と言っている。

山崎の頬に雪がついては解かされて消えていく。
その澄んだ顔は何かを悟ったかのように静かだった。

山崎「俺の身に宿る力は…禍々しき降魔のそれと一緒だったんだ…」

それは告白だったのかもしれない。

現実はいつも過酷で、自分の知らない事実で隠されている。
今の今まで帝都のために戦い、振るってきた霊力が邪悪なる属性だと気付いた時、
山崎はそれまでの疑心暗鬼の全てを知った。

真宮寺の力。帝都を守る米田の力。
この二つの力をなぜか心のどこかで理解しきれないでいた自分。

それらの源が全て正義だったからだ。

自分だけだ。
悪の因子、それが山崎真之介の体には刻み込まれている。

魔神器の光にあてられ、真宮寺の力に近い妖力を得た時、山崎は口には出さなかったが、
自分に宿る『邪なる者』の姿も見ていたかもしれない。

山崎「………どうして…どうして今の今まで気がつかなかったんだろう」

直面する現実に山崎は悔い入る。

魔神器は弱々しい嘘を消し飛ばし、無垢な真実をさらす。
それは善か悪かを断罪する兵器であるからだ。

まざまざと現実を突きつけられた山崎自身の横で、
ペタリと座る藤枝は分けがわからず見つめていた。

藤枝「……??」

山崎はぶらりと立ち上がり、落としていた刀を手に取る。
見上げる藤枝の表情が不安にあてられた。

山崎「あやめ、お前は生きろ」

言い捨てる山崎は、汚く傷だらけの体を押して
前に進んだ。

山崎の目が遠くの地面を見つめる。
あそこが魔神器の鏡を設置しなくてはならない場所だ。
今まで設置できなかった理由は
膨大な霊力を有する魔神器が大地に安定するには時間がかかるためである。
その間に降魔が触れれば、
この世は本当の破滅を迎えてしまうからだ。

そこまで考えて、山崎は軽く笑ってしまった。

山崎「それは邪悪な俺とて一緒ではないか…」

とても小さな声でぼやく。

藤枝「少尉?」

藤枝は見上げ、無謀にも立ち向かおうとしている山崎に手を伸ばす。
だが、山崎はそれをよけるようにして走り出した。

藤枝の顔が驚き、枯れた声を出す。

藤枝「ま、待って!」

藤枝は勢い良く走り出そうとしたが、
冷えた足は思うように動かず、もつれながら崩れる。

藤枝は目を見開き、驚愕した。

まるで、目の前の山崎が二度と手の届かない場所に行こうとしている気がしたのである。

山崎は懐にギュッと魔神器の鏡を押し入れ、
足場の悪いガレキを滑り降りていく。
もう、魔神器の鏡が山崎の心に呼応する事はなかった。

取り残された藤枝は
必死に冷え切った足を叩き、痺れを取ろうと焦っている。
顔はすっかり青ざめていた。

藤枝「待ってェ!止めてェ!!そんなことをしても…
   死んじゃう…貴方が死んじゃうッ!!」

藤枝がそう叫んだ時、
山崎はすでに、敵の眼前で走っていた。

藤枝「こんなの…」

絶望する藤枝は涙でかすむ光景の中に、
山崎が敵の群れに飛び込む状況が見えた。

首をたれ、ばさりと濡れた髪を振るう藤枝は悔しくて嘆きたくて、
地面の泥を掴む。

その遥か遠くで、
山崎は何十体もの降魔に囲まれ、
立ち尽くす。

彼は牙をむく降魔を前に
ニヤけ、取り出した魔神器の鏡を掲げた。
対峙するのはおぞましい怪物。帝都に仇なす忌むべき存在。
そんな彼らを山崎は古くからの故友を見るようだ。

山崎「………ムンッ!!」

山崎は鏡を大地に突きつける。
すると、大地で黄色く発光した。
周囲の降魔と山崎が照らされて、まるで同類であると言わんばかりに
同じ黄色の輝きで包まれた。

降魔達が怯える。

そんな中で、山崎は振り返り、にっこりと微笑んだ。

山崎の唇が動く。

それは遠くのことで、藤枝には聞こえないが、
彼が最後に言った言葉はおそらく死を覚悟してのものだと思う。
最後に伝えたかったのは
一体なんだったんだろうか。

わけもわからず藤枝はへたり込む。

藤枝「少尉…ッ!少尉…ッ!!少尉ィッ!!!」

嘆きが慟哭に混じって、
藤枝の四肢から自由を奪う。
もう、涙が目の前を包んで見えない。
叫んでも叫んでも、山崎真之介は戻って来ない。

一匹の降魔が
腕を振り上げる。

藤枝の目が赤く充血する。
嘆きを叫ぶ。

山崎が静かに何かに納得した。
両手を広げて、目を閉じる。

山崎「……呪い荒ぶる帝都に…あやめ、君の不幸無き事を…」

帝都ではなく、愛した者の安否を口にした山崎の心に、
反応して見せるかのように魔神器の黄色の光は全てを包んだ。

藤枝「………ッ!!」

目を見開く彼女の目の前で、
その光は山崎を飲み込み、降魔を飲み込み、
そして消えた。

あの時、藤枝に言った山崎の言葉は届いてはいない。
あの距離では届くわけがない。
それでも彼女は泣き顔を留めて、最後にもう一度大きく嘆いた。

魔神器『鏡』設置完了である。