辛く苦しい流刑地での生活の中でも、日に一度だけ楽しみな時間があった。
 家族三人で食べる夕食である。
 食料支給制の流刑所では自分たちで食事の用意をすることになっている。マリアは母が作る夕食をいつも心待ちにしていた。
 夕食の時はまた、一家三人が共にくつろげる数少ない時間でもあった。
 そして、その家族の団らんの場で、父ブリューソフはマリアに色々な話をしたものだった。
 マリアが六歳のときのある日。
「今日はロシアの古い民謡を聴かせてやろう」
 そういってブリューソフが歌い出したのは、とてももの悲しいメロディであった。

 Ах! скуцно мне на чужой стране……
 Все не мило все опостыло……
(ああ……たいくつだ 私は他国の地で
 何もかも 懐かしいものではなく 何もかも つらいものばかり……)

 それはとある漂流者の、異国での苦難の旅を謡ったものである。
 旋律と詩、両者の奏でる悲哀さに、歌っているブリューソフも思わず目に涙を浮かべてしまう。
 マリアもまた、そんな父の気持ちを察してか憂えた表情を見せる。
 そんな時。
「私……その歌あまり好きじゃないわ」
 そう言って調理の手を止め二人のそばへ寄ってきたのは、マリアの母、須磨であった。
「どうしてだい、スマ?」
 須磨は夫と娘のそばに腰掛けて話し始める。
「だって『何もかもつらいものばかり』って……その人はずっとひとりぼっちだったのかしら」
「それはわからない……でも異国の地、特に風土の厳しいこのロシアでは一人で生きていくことは出来ない。きっと手助けしてくれる人がいたはずだ」
「そうよね。それにメソメソしすぎよ。いつまでも過去を振り返っていないで、これからの新しい生活を見つめなくっちゃ」
「それはそうだが……」
「私も……あなたに連れられてロシアに来たときは、とても心細かった……」
「スマ……」
 顔を伏せがちにして須磨は言葉を続ける。
「でも、あなたがそばにいてくれたから。だから私は、いつも前をまっすぐ見つめて生きていくことが出来た……」
 そう言って顔を上げた須磨の瞳から、うっすらと涙があふれてくる。
 愛する妻のその表情に、ブリューソフもまた心動かされた。
「スマ!」
「ブリューソフ……」
 どちらからともなく、強く抱き合う二人。
 父と母のその深い愛と信頼は、六歳という多感な時期のマリアの心に、深く深く刻まれたのだった――

 マリアは思う。
 なぜ、母はたった一人で、父についてロシアへとやってきたのか。
 マリアは思う。
 なぜ、母は辛い境遇の中、一度たりとも運命を嘆いたりしなかったのか。
 それは、父を心の底から愛していたから。
 この人と共にいれば、どんなことでも厭わない。辛いことも辛いと思わない。
 この人を信じていれば、明日をみつめて生きていける。
 だから、昔のことや日本のことは口にしても、その思い出にひたることはなかった。
 自分も今、母と同じ境遇なのだ。
 異国の地で生きていくには、過去に縛られていたり、過去に浸っていたりしてはいけない。それは自分の心の弱さが生み出すもの――
(私は……なんて弱い人間なの……)
 そして、母はなんて強い女性だったのだろう――

「マリア……」
 急に陽の翳ったような表情のマリアを見て、大神は躊躇いがちに声をかける。
「――母は……」
 うつむきながらマリアは小さく口を開く。
「母は――私によく、ボルシチを作ってくれました……
 他にもいろいろなロシア料理を作ってくれて……私に教えてくれました……
 でも、日本の料理は一度も作ったことがなかったのです――」
「…………」
「母は決して、過去に浸ることなどなかったのでしょう。たとえ、異国の地に単身やってきたのだとしても――」
「きっとそれは、マリアのお父さんと、愛する人と一緒だったからじゃないかな」
 大神の言葉にはっとなるマリア。
 隊長も、同じ事を考えている――
「でも、なかなか出来る事じゃないよ。強い人だったんだね、マリアのお母さんは」
「はい……」
 マリアの胸に、何か安心できるような、そんな気持ちが生まれていた。
 それはロシアで、ニューヨークでかなえられなかった想いが、ここ帝都ならかなえられるのではないか――そういった気持ちだった。
 そう。この帝都で、この人となら――
「……よし、これで少しはよくなったかな」
 大神は小皿にカレールーを少し取り、マリアに差し出した。
 マリアは一口すすると、優しい微笑みをたたえながら、
「おいしいです、とても」
 そう言ってにっこりと微笑む。
 先程の沈んだ表情が明るくかわったマリアを見て、大神は大きく頷いて応えた。

 私は、この帝都で暮らしていく。
 そして、母のように強く、そして幸せになりたい。
 その第一歩は――

「隊長……」
「何だい、マリア?」
 振り向く大神に、マリアははっきりとこう告げた。
「このカレーが、私の――隊長と私の、新しい思い出の味です」
 微笑みながら――しかしその瞳には、強い決意をたたえながらマリアは言った。
「ああ。これから二人で、たくさんの思い出を作っていこう、マリア」
 そんなマリアに、大神もまた、固く固く誓った。

 西の空に沈みかけた夕陽の光が窓から入ってくる。
 その暖かい光は、これからの二人の未来を示しているかのようだった――

〈おもいでの味 了〉