やみの奥に潜むもの


 街のすべてが茜色に染まる、夕暮れ時。
 藤井かすみが大道具部屋へ入ると、中には箒を片手に掃除に励む真宮寺さくらのうしろ姿があった。
「あら、さくらさん。大道具部屋のお掃除ですか?」
「あ、かすみさん」
 その声に箒を動かす手を止めて、さくらが振り向く。
「ええ。ここしばらく掃除していなかったので……かすみさんは?」
「来月の舞台公演に使う大道具の点検をしようと思って」
「来月のって……『愛はダイヤ』ですね。もう準備始めるんですか?」
「毎月公演が入ってますから、早め早めに準備を進めないととても間に合わないんです」
「わかりました! じゃああたしもお手伝いしますね」
「お願いできますか? ……すみません。正直、一人だとちょっと大変なので」
 そう言って互いに微笑むと、かすみは大道具部屋の奥の方へと向かった。さくらもその後ろについていく。
 大きな木箱や段ボールが積んであるところでかすみは足を止め、箱の山に埋もれている一つの大きな木箱を指さした。
「この箱の中にいろいろと入っていると思うのですが……少し整理してみましょうか」
「そうですね。早速やりましょう」
 かすみがてきぱきとたすきを掛ける。その間に、さくらが木箱を奥から引き出していた。
「うんしょっと……重いですね、これ……」
「あっ、さくらさん。私も手伝います」
「すみません。……じゃ、せーの……」
 二人は箱の端を持つと、力一杯引き出した。
「きゃあっ!?」
 勢い余って、二人は同時にしりもちをつく。
 二人は思わず顔を見合わせ、笑いあった。
「ふふっ、なんとか出せましたね」
「ええ、あとは中を整理――」
 と言いかけたところで、かすみの口が止まった。
 いや、口だけではない。身体全体が、まるで金縛りにでも懸かったかのように止まっていた。両の瞳は木箱がもとあった場所一点に釘付けになっている。
「どうしました? かすみさん――」
 言いながらかすみの視線の先に目をやったさくらも、かすみと同様に動きが固まった。
 二人の視線の先には――1匹の大きなねずみの姿が。
『きゃああああっ!!』
 二人は同時に悲鳴を上げると、急いでその場を離れていた。
「ね、ねずみ……ねずみ……」
 かすみがうわごとのように呟く。ぶるぶると身体を小刻みに震わせて。
 その普通ではない怯え方に、さくらが心配げにかすみに声をかける。
「かすみさん、大丈夫ですか!?」
「あ……ええ、さくらさん……大丈夫です……」
 そう言ってかすみは微笑みかけるが、その笑顔はどこか弱々しげで、顔色も幾ばくか喪っていた。
「かすみさん……」
「ごめんなさいさくらさん……はしたない所をお見せして……」
「いえ、いいんです。でも……」
 そこまで言って少し言葉を止めてから、さくらは続ける。
「ちょっとびっくりしました。かすみさんがこんなに怖がるなんて……」
「…………」
「あ、ごめんなさい。あたしったら変なこと言って……」
 ばつの悪そうな顔をするさくらに、かすみは優しく微笑む。
「いいんです、さくらさん……そうですよね、普通はこんなに怯えたり、しないですよね……」
「……なにか、理由があるんですね?」
「よろしかったら……聞いていただけますか? さくらさんに、是非聞いていただきたいんです」
 かすみの意外な申し出に、しかしさくらは優しく微笑みかけ、
「――わかりました。じゃどこか別の場所で……」
 そう言うと、さくらはかすみに手を貸して立ち上がる。
 そして二人で大道具部屋の出口に向かって歩みを進め――
『待ちな、そこの二人!』
 ふいに、やけにかん高い声が広い大道具部屋に響いた。
 ぴたっ、と足を止めるさくらとかすみ。
「さくらさん……いま何かおっしゃいましたか……?」
「いえ、あたしは何も……」
『こっちだよこっち! 人を無視して勝手に出ていくんじゃないよ!!』
 声は、二人の背中の方から投げかけられてくる。
「ま、まさか……」
 二人は首だけをぎぎぎぃっと動かしてうしろを振り向いた。
 そこには――二本足で立って腕組みをしながら、大きな黒い瞳を二人に向けているさきほどのねずみが!
 そして――
『まったく、鈍い女たちだねぇ』
 そう言って、ねずみがニヤリと笑ったではないか!
「ね、ねず、ねずみが……」
『しゃべったあああぁぁぁあっ!!!』
 二人が発した悲鳴は大気を震わせ、地を揺るがし、大帝国劇場に激震をもたらした。
 この時、帝都気象台は銀座に震度5の揺れを観測したという。

 さて、ここは日本橋の地下深くに広がる、黒之巣会の総本部。
 漆を流したかのような深淵の闇のその中に、子供の頭ほどの大きさの水晶球が、淡い紫色の光を発していた。
 そして、その水晶球を取り囲む4つの影――
「おーっほっほっほっ!! やつらの恐怖するさま……なんとも愉快な見せ物じゃ!」
 そう言って高笑いを上げているのは、紅き衣裳に身を包み、派手な化粧を施している紅のミロク。
「ふん! それも私が奴らに関する情報をつかんだ賜物……感謝しろ、ミロク!」
 その横からミロクに挑発的な言葉を書けてきたのは、背が届かないので小さな台の上に乗っかって水晶球を見つめていた蒼き刹那。
「うおおおおっ、さすがは兄者じゃ! 感服しましたぞぉぉっ!!」
 さらにその横で感動の涙を流しているのは、刹那の双子の弟・白銀の羅刹。
「見よ! 叫べ! そして恐怖せよ! 我にたてつくおろかな人間どもよ!! はははははははっ!!」
 最後に、しわだらけな猿顔をさらにしわくちゃにして笑っているのは、黒之巣会総帥・天海。
 そう。このしゃべるねずみは、黒之巣会がしかけたものだったのだ。
 4人が取り囲む水晶球には、「ねずみがしゃべった、ねずみがしゃべった……」と天を仰いで呟いているかすみと、「いやぁぁぁっ!!」と悲鳴をあげながら箒をぶんぶか振り回すさくらの姿が映し出されていた。
「しかし、こうも上手くいくとは思わなかったぞ、ミロク!」
「わらわの式神を操る力をもってすれば、あのような小動物を操るなどたやすいこと」
「帝国華撃団の苦手とするものをけしかけ、恐怖に陥らせる――これでやつらの戦意はがた落ちというものよ!」
「うおおおおっ、さすがは兄者じゃあっ! わしは、わしは感服しましたぞぉぉぉぉっ!」
「よし! 残りの者にも等しき恐怖を与えるのじゃ!!」
「神崎すみれはクモ、そして桐島カンナはヘビ……やつらの苦手なものは既に調査済よ……」
「他の連中にはどうするんだい、刹那? 苦手な動物とかわからないんじゃないのかい?」
「そういったやつらにはゴキブリでもしかけてやればいい……あれを見て怖がらぬ人間などいないからな」
「うおおおおおおっ! さすがは兄者じゃああああああああっっ!!」
「さあやれ、ミロクよ! 我が願い、幕藩体制復活を邪魔する輩に、絶対なる恐怖をまき散らすのじゃ!」
「おーっほっほっほっほっほ!」
「フハハハハハハハハハハっ!!」
「うおおおおおおおおおおっ!!!」
「ウワ〜ッハッハッハッハっ!!!!」

 4人が馬鹿笑いを上げている所からすこし離れた闇のわだかまる場所で、葵叉丹――この時はまだ黒き叉丹と名乗っている――が、一人頭を抱えていた。
「せこい! せこすぎる!! これが帝都転覆を狙う者のすることなのか。おまけに喜んでるし……
 やはり、このもうろくじじぃを蘇らせたのは間違いだったか――」
 黒之巣会のせせこましい攻撃に悩む叉丹の頭に、4人のバカ笑いがぐさぐさと突き刺さるのだった。

「きゃ〜〜〜っ!! ク、ク、ク、クモよおお〜〜っ!!」
「どわあっ!! ヘビだヘビだヘビだヘビだヘビぃぃぃぃぃぃっ!!」
「いや〜〜〜〜っ、アイリスごきぶりきらい〜〜〜〜っ!!」
 その日、夜の帷の落ちた後、帝劇内に絹を引き裂くかのような悲鳴が無数にあがった。

 この黒之巣会による、みみっちくも、しかし確実にダメージを与えている攻撃は、月組によって劇場内のねずみやクモが徹底的に駆除されるまで続いたのだった。

〈やみの奥に潜むもの 了〉