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用土正憲【ようど・まさのり】 生没年不詳
 新七郎。正光の子。北条氏邦の臣。天神山城の支城千馬山城主(秩父郡皆野町三沢)。

用土正光【ようど・まさみつ】 生没年不詳
 新左衛門。藤田康邦の子。用土氏2代。北条氏邦の臣。天神山城の支城千馬山城主。

用土康邦 → 藤田康邦

横瀬時親【よこせ・ときちか】 生没年不詳
 秩父郡横瀬(秩父郡横瀬町横瀬字根古谷)に拠った土豪。

横地忠春【よこち・ただはる】 生没年不詳
 左近将監、吉春。北条氏邦の臣。永禄年間より鉢形城の支城雉ヶ岡(八幡山)城主(児玉郡児玉町八幡山)をつとめる。

横山時範 → 猪俣時範

吉岡将監【よしおか・しょうげん】 生没年不詳
 足立郡吉岡(川口市安行吉岡)に殿山城を築いた。

芳川春濤【よしかわ・しゅんとう】 1844〜1924  81歳
 俊雄。芳川波山の子。若くして忍藩校進修館教授を勤めたが、文久元年藩主の命により江戸へ出て蘭学、ついで大鳥圭介に英学を学ぶ。帰藩後洋学教官となり、忍および江戸で多くの学生を教育した。維新後は外務省、報知新聞社、東京高等商業学校講師、上海新報社、会計検査院文書課と様々な活躍をする。

芳川波山【よしかわ・はざん】 1794〜1846 53歳
 善治、万助。俊正の子。山本北山に漢学を学ぶ。林大学頭の推挙により忍藩主松平忠堯に招かれ、藩校進修館の教授となる。南宋書の校訂、復刻をした『東都事略』を著した。

吉川温恭【よしかわ・よしずみ】 生没年不詳
 忠八。入間郡宮寺(入間市宮寺)の人。江戸時代後期、それまであまり評判のよくなかった狭山茶の品種改良に努め、文化9年(1812)に「若草」「君が梅」の製造に成功、狭山茶の名を一躍全国に知らしめた。

吉田勘解由【よしだ・かげゆ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。玉縄衆の1人。松山本郷(東松山市松山、本町、松本町、日吉町など)で500貫の知行を得ていた(「役帳」)。

吉田真重【よしだ・まさしげ】 生没年不詳
 政重の子。北条氏邦の家臣。猪俣邦憲より児玉郡小島郷(本庄市小島)100貫を安堵される。

吉田宗敬【よしだ・むねたか】 1739〜1813 75歳
 市右衛門。宗以の子。幡羅郡下奈良村(熊谷市下奈良)の名主となる。浅間山の噴火に際しては多額の義捐金を献納。寛政元年(1789)の利根川水害では47ヶ村の役の免除を願い出て500両を、同4年には荒川から用水を引く資金として300両を納めている。さらに貧困の子を救うために32年間で150両以上の私財を与えたという。

吉田宗親【よしだ・むねちか】 1816〜1868 53歳
 市右衛門。宗敏の子。幡羅郡下奈良村(熊谷市下奈良)の名主。ペリー来航の時に24、18、12斤と3種類の大砲を鋳造して弾薬と共に幕府に献上した。

吉田宗敏【よしだ・むねとし】 1783〜1844 62歳
 市右衛門。宗敬の子。幡羅郡下奈良村(熊谷市下奈良)の名主を継ぐ。慈善家として名高く、天保飢饉の時は1万両を献上。さらにその利子で購入した籾を貯蔵して貧民の救済にあてた。この他授産利殖資金、助郷役助成金、備前堀用水の修復工事資金、荒川通玉井堰用水改修資金、多数の石橋設置資金など寄付金は枚挙にいとまがない。その功績は幕府や忍藩主からしばしば功され、大正になって「贈正五位」を追贈された。

吉田宗以【よしだ・むねとも】 1701〜1792 92歳
 市右衛門。53歳で幡羅郡下奈良村(熊谷市下奈良)の名主となる。善行により勘定奉行より白銀5枚を賜った。

吉見範国【よしみ・のりくに】 生没年不詳
 源範頼の子。吉見姓を名乗り、吉見郡吉見(比企郡吉見町御所)に居住した。

吉村助五郎【よしむら・すけごろう】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。松山衆の1人。吉見郡久米田(吉見町久米田)にて53貫200文、さらに寄子新田として、松山本郷に13貫文を与えられていた(「役帳」)。

依田大膳亮【よだ・だいぜんのすけ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。永禄5年(1562)から石戸城主(北本市石戸宿)を勤める。

米津政崇【よねきつ・まさたか】 1724〜1784 61歳
 勘兵衛、相模守、伯耆守、越中守。政容の3男。久喜藩1万1千石の藩主。大番頭、大坂定番を勤める(「寛政重修諸家譜」)。

米津政武【よねきつ・まさたけ】 1638〜1708 71歳
 大助、伊勢守、出羽守。旗本米津田盛の長男。のち田盛は大名に列せられる。父の死後政武が跡を継ぎ、貞享元年(1684)埼玉郡久喜に居所を定め、久喜藩1万2千石の藩祖となった。寺社奉行を勤めるが、勤務不良により罷免される(「寛政重修諸家譜」)

米津政矩【よねきつ・まさのり】 1675〜1703 29歳
 小大夫。政武の長男。久喜藩1万1千石の藩主(相続時に1千石を弟に分与)。大坂加番(「寛政重修諸家譜」)。

米津政容【よねきつ・まさよし】 1682〜1739 58歳
 出羽守。政武の次男。兄政矩から1千石分与され、5代将軍綱吉に小姓並として仕えていたが、兄の死により久喜藩1万1千石の藩主となる。のち大番頭、大坂定番を勤める(「寛政重修諸家譜」)。

米津通政【よねきつ・みちまさ】 1750〜1819 70歳
 政崇の子。久喜藩1万1千石の藩主。18歳で家督を継ぐ。寛政10年(1798)出羽長瀞藩に転封となり、久喜藩は廃藩となった(「寛政重修諸家譜」)。

四方田弘長【よもだ・ひろなが】 生没年不詳
 左近将監。庄弘高の子。源頼朝にしたがって奥州征伐に出陣する。児玉郡四方田(本庄市四方田)に居を構え、四方田氏を称した。