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塩谷家遠【しおや・いえとお】 生没年不詳
 児玉党。児玉郡塩谷(児玉郡児玉町塩谷)に篠城を築いた。

塩谷惟広【しおや・これひろ】 ?〜1189
 五郎。児玉郡塩谷(児玉町塩谷)の土豪。源範頼に仕え、一ノ谷などで活躍。奥州で討死(「七党系図」)

塩谷惟守【しおや・これもり】 ?〜1213
 惟広の子。鎌倉幕府の御家人。和田合戦で息子惟光とともに討死した。

紫藤新六【しとう・しんろく】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。御馬廻衆の1人。入西郡大類(毛呂山町大類)で25貫108文を領していた(「役帳」)。

自徳【じとく】 ?〜1508
 俗姓小林氏。曹洞宗の僧。大里郡生まれ。13歳の時鎌倉浄智寺で出家する。長じて甲斐長生寺の住持となる。

柴田康忠【しばた・やすただ】 1538〜1593  56歳
 弥七郎。政之の子。徳川家康の臣。三河一向一揆の戦いにおいて射芸で名をあげる。三方ヶ原・長篠合戦では先手を勤める。関東移封後羽生において5千石を賜る。

柴山重吉【しばやま・しげよし】 ?〜1617
 縫殿介、新次郎。木戸忠朝の子。姓を柴山に改めた。子孫は松平信綱が忍城主の際これに仕えた。

四分一兵右衛門【しぶいち・ひょうえもん】 ?〜1864
 正質。埼玉郡下須戸(行田市下須戸)の平塚又市の次男で幡羅郡柿沼村(熊谷市柿沼)の酒造業四分一家の養子となり家業を継ぐ。馬庭念流を学び、自邸に道場を開いていた。念流宗家から賓客として遇され「門人47人の総帥」と呼ばれていた。

渋江三郎【しぶえ・さぶろう】 生没年不詳
 岩付太田氏に仕え、渋江館(岩槻市金重か)に拠った。大永5年(1525)、北条氏綱が岩槻城を攻めた時これに内応し、岩槻城は落城、三郎はそのまま岩槻城代となった。しかし享禄3年(1530)太田資頼の攻撃を受け城を追われた。

渋川義鏡【しぶかわ・よしあきら】 生没年不詳
 義俊の子、義行の曾孫。室町幕府に仕える。長禄元年(1457)関東探題に任命され、蕨城主(蕨市中央四丁目)となる。関東管領上杉氏のために尽力し古河公方と争うが、力及ばず古河公方足利成氏と和を結んだ(「渋川氏系図」)。

渋川義堯【しぶかわ・よしたか】 生没年不詳
 義鏡の子。蕨城主(蕨市中央四丁目)。後北条氏により岩槻城が落城すると、義堯も後北条氏の麾下に入る。

渋川義基【しぶかわ・よしもと】 ?〜1567
 義堯の子。蕨城主(蕨市中央四丁目)。後北条家家臣。安房里見氏との戦いで戦死した。

渋川義行【しぶかわ・よしゆき】 生没年不詳
 足利氏一族。直頼の子。武蔵守。蕨城を築き、居所とした(「渋川氏系図」)。

島田重次【しまだ・しげつぐ】 生没年不詳
 次郎兵衛。左京亮利秀の子。徳川家康の臣で50人の鉄砲足軽を預かっていた。関東入国に際して坂戸2千石の地を賜り、菩提寺として永源寺を建立する。孫の忠政は江戸北町奉行を勤めた。

志水左近将監【しみず・さこんしょうげん】 生没年不詳
 下忍(行田市下忍)の住人。承久の乱に出陣したが、宇治の合戦で負傷した。(「吾妻鏡」)

志水光俊【しみず・みつとし】 生没年不詳
 小島重光の次男。志水氏祖。

下川元于【しもかわ・げんう】 1730〜1774  45歳
 又左衛門。渥美正長の子で下川元豊の養子となる。川越藩家老を勤める。

宿谷重近【しゅくや・しげちか】 生没年不詳
 田波目城主(坂戸市多和目)。後北条家家臣。天文15年(1546)城下に永源寺(現坂戸市多和目)を開山した。

宿谷重利【しゅくや・しげとし】 ?〜1590
 後北条家家臣。秀吉の北条征伐の際には八王子城に篭城、討死にした。

宿谷重吉【しゅくや・しげよし】 生没年不詳
 田波目城主(坂戸市多和目)。後北条家家臣。重近の子。河越夜戦には父のかわりに参加した。

宿谷本吉【しゅくや・もとよし】 生没年不詳
 田波目城主。後北条家家臣。秀吉の小田原征伐の時は小田原城に篭城する。

舜徳【しゅんとく】 1507〜1626  120歳
 俗姓源氏。伊勢の生まれ。13歳の時出家し、上野、相模、大和吉野と歩き渡り、河越に移り住む。文明8年(1476)太田道灌は江戸城の西に青松寺を建立、舜徳を開山第一世とした。

庄家長【しょう・いえなが】 生没年不詳
 弘高の子、家弘の孫。源頼朝に従い、一の谷で平重衡を生け捕るという戦功をあげている。

庄家弘【しょう・いえひろ】 生没年不詳
 大夫。児玉党。初めて庄姓を名乗る。

正田嘉七郎【しょうだ・かしちろう】 1828〜1880  53歳
 光徳。大里郡間々田村(大里郡妻沼町間間田)の生まれ。江戸にて直心影流を学ぶ。明治13年の秩父撃剣会で審判を務めている途中で急死した。

小代重泰【しょうだい・しげやす】 生没年不詳
 重俊の子。吉見郡小代(東松山市正代)に拠る御家人だったが、宝治元年(1247)肥後国野原庄の地頭職に任じられ、下向した。元寇に備える目的であったという。

庄弘方 → 浅見弘方

庄弘高【しょう・ひろたか】 生没年不詳
 武蔵権守。家弘の子。源範頼に従い、一の谷で戦功をあげた。

庄弘長 → 四方田弘長

城昌茂【じょう・まさしげ】 1552〜1626  75歳
 織部、織部佐、和泉守。景茂の子。初め甲斐武田氏、同氏滅亡後は徳川家に仕える。長久手の戦いに従軍。関東入府後忍・熊谷に7千石を給される。関ヶ原にも従軍するが大坂夏の陣において軍律違反に問われ改易された。

庄頼家 → 本庄頼家

白石播磨守【しらいし・はりまのかみ】 ?〜1583
 実名不祥。後北条家家臣。白石城主(児玉郡美里町白石)。

白石宗綱【しらいし・むねつな】 生没年不詳
 播磨守の子。後北条家家臣。白石城主。

新藤下総守【しんどう・しもうさのかみ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。河越衆の1人。江戸雪ヶ谷・河越三十三郷大袋(川越市大袋、大袋新田)などで63貫229文を領していた(「役帳」)。

神馬忠春 【じんま・ただはる】 ?〜1546
 遠江守。下野浅利城主。下野唐沢山城主佐野氏の一族。天文15年(1546)の河越夜戦に佐野豊綱にしたがって出陣、戦死した。