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会田外記【あいだ・げき】 生没年不詳
 信清の孫。日光御成街道大門宿(浦和市大門)の開発者。大門宿の本陣、問屋、名主役を兼帯する村の要職を一手に引き受け、岩槻藩主より苗字帯刀を許されている。

会田吾山【あいだ・ござん】 1717〜1787  71歳
 秀真。越谷宿新町名主会田文之助の子。俳句と国学に優れ、滝沢馬琴の俳句の師匠でもあった。著書に『諸国方言物類呼称』があり、方言学の始祖といわれている。

会田資勝【あいだ・すけかつ】 生没年不詳
 庄七郎。資久の子。小姓として徳川秀忠に仕えたが、慶長12年(1607)罪を受け駿河掛川に預けられる。3年後赦免されるも以後消息不明。

会田資清【あいだ・すけきよ】 ?〜1589
 出羽守。信清の弟。太田資正と親交があり、「資」の諱を受けた。

会田資信【あいだ・すけのぶ】 生没年不詳
 小左衛門。資勝の孫。徳川家光の小姓として仕え、500石を給された。

会田資久【あいだ・すけひさ】 ?〜1619
 出羽守。資清の子。戦国末期〜安土桃山の部将。後北条氏滅亡後、越谷に隠棲した。慶長9年(1604)徳川家康より要請があり、所有地の一部を割いて越谷御殿設営地に提供した。

会田俊盈【あいだ・としみつ】 1767〜1833  67歳
 平左衛門。埼玉群登戸村(越谷市登戸)の関根家の生まれ。少年期に児玉南珂に師事し、のち足立郡大門宿(浦和市大門)の会田家の養子となる。寛政5年(1793)に会田寺小屋を開業、以後3代にわたり受け継がれた。

会田信清【あいだ・のぶきよ】 生没年不詳
 中務丞。将監幸久の子。後北条氏家臣。江戸衆として江戸下平川・葛西小岩・飯塚・奥戸の地に276貫900文の知行があった(「役帳」)。

会田政重【あいだ・まさしげ】 1581〜1642 62歳
 七左衛門。資久の養子。関東郡代伊奈氏の下で代官を勤め、新田開発に貢献した。政重が開いた新田は「七左新田」と呼ばれ、のちに越巻、大間野(越谷市大間野町)、七左衛門(越谷市七左町)の各村に分村された。

会田幸久【あいだ・ゆきひさ】 生没年不詳
 将監。もと信濃守護小笠原氏の臣。幸久の代に越谷郷(越谷市南荻島)に移り住む。初め岩付太田氏、のちに後北条氏に仕える(「会田家譜」)。

青山忠俊【あおやま・ただとし】 1578〜1643  66歳
 伯耆守。青山忠成の次男。岩槻4万5千石の藩主。老中。浜松生まれ。幼少の頃より徳川秀忠に仕え、慶長7年(1607)からは家光の傅役となる。忠俊は軟弱な家光を闊達剛毅な性格に鍛え、将軍らしい資質を身に付けさせた。のち酒井忠世、土井利勝とともに「寛永の三補」と呼ばれる。元和6年(1620)岩槻に封されるが、同9年家光の勘気を被り上総大多喜藩2万石に減封されてしまう(「新訂寛政重修諸家譜」)。

赤井幸長【あかい・ゆきなが】 ?〜1600
 本庄藩士。小笠原信之に仕える。関ヶ原には主君にしたがって出陣したが、信濃上田城攻めで戦死した。

秋元景朝【あきもと・かげとも】 ?〜1587
 越中守。長朝の父。深谷上杉氏家臣。「上杉四天王」「深谷の三宿老」と呼ばれた重臣であった。

秋元凉朝【あきもと・すけとも】 1717〜1775  59歳
 摂津守、但馬守。川越藩6万石の藩主。奏者番、寺社奉行、若年寄、老中。秋元隼人正貞朝の三男。喬求の養子となり、跡を継いだ。襲封直後の寛保の大洪水において有力商人・地主に施米を奨励、また倹約令を頻発した。老中就任中田沼意次と対立し、出羽山形藩に転封を命じられる。が、凉朝は江戸屋敷を動かず、子の永朝が任地に赴いた(「徳川諸家譜」)。

秋元喬知【あきもと・たかとも】 1649〜1714  66歳
 但馬守、摂津守、侍従。川越藩5万石の藩主。奏者番、寺社奉行、若年寄、老中。戸田山城守忠昌の長男。母は甲斐谷中藩主秋元富朝の娘。男子のない富朝の養子となり下野谷中藩1万8千石を相続する。のち元禄地震の復興に功ありとして、宝永元年川越藩5万石に転封となった。喬知は畑作地帯の殖産推進を試み、養蚕を奨励した。正徳元年(1711)1万石を加増される(「寛政重修諸家譜」)。

秋元喬房【あきもと・たかふさ】 1683〜1738  56歳
 伊賀守、但馬守。川越藩6万石の藩主。奏者番。喬知の長子。父の跡を継いで川越藩主となる(「寛政重修諸家譜」)。

秋元喬求【あきもと・たかもと】 1716〜1744  29歳
 越中守。川越藩6万石の藩主。父は戸田越前守忠余。13歳で秋元喬房の婿養子となり、養父の死後遺領を継いだ(「寛政重修諸家譜」)。

秋元長朝【あきもと・ながとも】 1546〜1628  83歳
 孫四郎、越中守。但馬守景朝の子。母は関東管領上杉憲政養女。深谷上杉氏に仕える。主家上杉氏が後北条氏に仕えるようになるとそれにならった。天正18年(1590)の小田原征伐では、小田原に篭城している深谷城主上杉憲盛にかわり深谷城に篭もるが降伏。1592年頃には徳川家康に仕えたようである。関ヶ原後上総総社1万石の大名となり、用水開削、2万7千石の新田開発、総社城築城と地域開発に力を入れ、寛永5年(1628)同城で没した(「藩翰譜」「寛政重修諸家譜」「徳川実記」)。

秋元泰朝【あきもと・やすとも】 1580〜1642  63歳
 長朝の子。徳川家康に仕えて足立郡内に500石を与えられる。関ヶ原にも従軍し、後に加増されて甲斐都留郡谷村藩1万8千石の藩主となる。

秋山光政【あきやま・みつまさ】 生没年不詳
 新蔵人。秋山村(児玉郡児玉町秋山)の土豪。足利直義に属し、京都賀茂川で足利尊氏方の安保忠実と一騎打ちをした(「太平記」)

秋山要助【あきやま・ようすけ】 1772〜1833  62歳
 正武、雷角斎、雲嶺。善太郎の子。埼玉郡箱田村(熊谷市箱田)に生まれる。父より鹿島神道流、岡田十松に神道無念流を学び、自ら扶桑念流を興した。故郷箱田のほか飯能や江戸、高崎、伊勢崎などにも道場を開き、門弟は2000人に及んだという。墓所は栃木県佐野市にある。

朝倉忠之進【あさくら・ただのしん】 生没年不詳
 岡部藩家老。安倍信発に仕える。水戸天狗党が上州側から利根川を渡河しようとしたとき、藩兵200と大砲2門を藩主信発より預けられ出陣する。

朝見玄光【あさみ・げんこう】 生没年不詳
 伊勢守。秩父郡下日野沢(皆野町下日野沢)の土豪。根古屋城主(秩父郡横瀬村横瀬字根古谷)。後北条氏家臣。朝見伊賀守の父。もとは阿佐見姓を名乗っていたが、永禄12年(1569)甲州勢を早朝に発見した功により朝見に改姓した(「武州文書」)。

浅見古聞【あさみ・こぶん】 ?〜1766
 半平、清慎。秩父郡大宮郷(秩父市大宮)の医師の子。幼少の時地炉に落ちて右手指を失ったが13歳の時発心して書家を志し、細井広沢の門下となる。慣れない左手ながら能筆家と賞され「左手の古聞先生」と呼ばれた。

浅見弘方【あさみ・ひろかた】 生没年不詳
 庄家弘の子。児玉郡浅見郷(児玉郡児玉町下浅見)に移住し、浅見(阿佐見)姓を名乗った。

朝見慶延【あさみ・よしのぶ】 生没年不詳
 伊賀守。根古屋城主(秩父郡横瀬村横瀬字根古谷)。北条氏邦の臣。朝見伊勢守の子。

足利政氏【あしかが・まさうじ】 1466〜1531  66歳
 左馬頭。古河公方。足利成氏の子。はじめ扇谷上杉定正と組んで山内上杉顕定と戦うが、定正の死後、顕定と組む。後北条氏についての意見のくいちがいから息子高基と不和になり、小山政長を頼って下野に落ち延び、のち岩槻城主となる。永正16年(1519)久喜に隠棲し、同地で没した。

足利基氏【あしかが・もとうじ】 1340〜1367  28歳
 足利尊氏の4男。鎌倉府初代長官。武蔵武士を統率するため、入間川城、岩殿山城(東松山市岩殿字油免)を築く。

阿諏訪巳之助【あすわ・みのすけ】 生没年不詳
 実名不詳。竜谷山城主(入間郡毛呂山町阿諏訪)。

安宅七郎次郎【あたぎ・しちろうじろう】 生没年不詳
 実名不詳。後北条氏に仕える。松山衆の1人。吉見郡山下(比企郡吉見町山下)で1貫500文の知行を給されていた(「役帳」)。

足立遠元【あだち・とおもと】 生没年不祥
 右馬允、左衛門尉。遠兼の子。源頼朝の臣。鎌倉幕府の御家人。公文所寄人。足立郡植田谷(大宮市植田谷本)に屋敷跡がある。平治の乱では源義朝に従う。2代将軍頼家の専制を防ぐためにとられた合議制の13人の1人。足立郡を与えられる。

安達盛長【あだち・もりなが】 ?〜1200  
 藤九郎。源頼朝の功臣。三河守護。足立郡糠田(鴻巣市糠田)を所領しており、同地に祈願所として放光寺を創建、自らの木像を安置した。

阿仁輪直家【あにわ・なおいえ】 ?〜1357
 兵衛。基保の子。仲山城主(長瀞町野上下郷)。館に仕えていた侍女との恋のもつれから、秋山城主(児玉郡児玉町秋)秋山継照に攻められ、戦死した。

阿仁輪基保【あにわ・もとやす】 生没年不詳
 兵助。院を守る北面の武士だったが、のち新田義貞に属し、秩父郡野上(秩父郡長瀞町野上下郷)に土着した。居城として仲山城を築く。

阿部定高【あべ・さだたか】 1635〜1659  25歳
 備中守。岩槻藩9万3千石の藩主。重次の子。日光山御造営奉行。弟2人に新田2万2千石を分与する。のち6千石は返還される(「新訂寛政重修諸家譜」)。

阿部重次【あべ・しげつぐ】 1598〜1651  54歳
 作十郎、山城守、対馬守。正次の次男。初め三浦重成の養子となるが、兄政澄が没したため嫡子となる。御小姓組番頭、老中。徳川家光配下の所謂「六人衆」の1人として信頼が厚かった。初め近江浅井郡に3千石の分家を創設するが、寛永12年(1635)に1万石加増され、下野鹿沼藩主となる。3年後父正次から4万6千石を分与され都合5万9千石を領し、岩槻藩主となる。主に日光関係の作事・行事に関わり、正保4年(1647)1万石加増される。最終的には父正次の遺領摂津3万石を継ぎ、計9万9千石の大名となる。慶安4年(1651)将軍家光に殉じた(「新訂寛政重修諸家譜」)。

阿部忠秋【あべ・ただあき】 1602〜1675  74歳
 小平次、豊後守、侍従。幕府徒頭阿部忠吉の次男。阿部正次の甥に当たる。9歳で家光の小姓となったとき、わずか20人扶持であった。その後元和5年(1619)500俵、同9年小姓組頭になり1千石を知行。寛永元年(1624)父の遺領を継ぎ6千石。その後出世を重ね同10年には6人衆に任命、同12年(1635)下野壬生2万5千石の藩主となり、同時に老中となる。4年後、忍藩5万石に加増転封、正保4年(1647)1万石、寛文3年(1663)2万石加増され計8万石となる。忠秋は31年間老中を勤め、篤実にして廉直かつ剛健な性格で諸大名・旗本の信頼も厚かった(「徳川実記」「公余録」「公余附録」「寛政重修諸家譜」「行田市史」「国学史」)。

安倍信発【あべ・のぶおき】 ?〜1895
 錦吉、摂津守。岡部藩2万250石の藩主。武蔵金沢藩主米倉昌寿の子。信宝の養子。水戸天狗党と戦う。早くから尊王の意志を明らかにし、いち早く新政府についた。また慶応4年(1868)4月所領であった三河半原に移り半原藩が成立、岡部藩は消滅した(「武州榛沢郡中瀬村資料」「埼玉県史」「安倍家譜」)。

安倍信賢【あべ・のぶかた】 1685〜1723  39歳
 弥一郎、摂津守。岡部藩2万250石の藩主。信峯の子。宝永7年(1710)相模国の川普請を命じられ、これを成し遂げた(「徳川実記」「寛政重修諸家譜」「安倍家譜」)。

安倍信勝【あべ・のぶかつ】 ?〜1600
 安倍元真の子。徳川家康の臣。天正18年(1590)榛沢郡5250石を与えられ、岡部の地に陣屋を築いて支配した。

安倍信宝【あべ・のぶたか】 1839〜1863  25歳
 虎之助、河内守、摂津守。岡部藩2万250石の藩主。信古の子。大坂加番、二条定番。弘化3年(1846)罪人となった洋式砲術家高島秋帆を預かる。この時秋帆は藩兵に砲術を指南、岡部藩の軍事力は強化された(「続徳川実記」「安倍家譜」)。

安倍信允【あべ・のぶちか】 1728〜1798  71歳
 安三郎、丹波守、摂津守、主水正。岡部藩2万250石の藩主。大坂定番。信興の子。子のない信平に末期養子としてはいり、跡を継ぐ。江戸麹町の藩邸に藩校就将館を設立した(「徳川実記」「寛政重修諸家譜」「安倍家譜」)。

安倍信友【あべ・のぶとも】 1638〜1701  64歳
 弥一郎、摂津守。岡部藩2万250石の藩主。信之の子。大番頭、大坂定番。大坂で没したが、その際の遺書に「家中切腹堅く申し付けられるべく候」と家臣の殉死を禁止している(「寛政重修諸家譜」「安倍家譜」)。

安倍信古【あべ・のぶひさ】 1815〜1842  28歳
 虎之助。岡部藩2万250石の藩主。信操の次男。兄の死後藩主となる。大坂加番。剣を千葉周作に師事したという(「続徳川実記」「安倍家譜」)。

安倍信平【あべ・のぶひら】 1710〜1750  41歳
 鉄三郎、摂津守。岡部藩2万250石の藩主。信賢の子(「徳川実記」「寛政重修諸家譜」「安倍家譜」)。

安倍信亨【あべ・のぶみち】 1758〜1822  65歳
 弥一郎、丹波守、采女正、摂津守。岡部藩2万250石の藩主。大坂定番。信允の子。先祖安倍元真の没後200年に当たる天明6年(1786)に岡部の地に安倍家10代の事績を記した碑を建立した(「続徳川実記」「寛政重修諸家譜」「安倍家譜」)。

安倍信峯【あべ・のぶみね】 1659〜1706  48歳
 弥一郎、丹波守。岡部藩2万250石の藩主。信友の子。元禄14年(1701)、江戸城松の廊下で播磨赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央に対しおこした刃傷事件で長矩が切腹を命じられた時、従兄弟に当たる信峯も連坐して出仕差し止めとなった。3ヶ月後許され、同年3月に亡くなった父の遺領をようやく継ぐことが出来た(「徳川実記」「寛政重修諸家譜」「安倍家譜」)。

安倍信操【あべ・のぶもち】 1790〜1825  36歳
 安三郎、摂津守。岡部藩2万250石の藩主。和田倉門番、半蔵口門番、大坂加番、一橋門番、馬場先門番。信允の三男。兄2人が相次いで夭折したため、安倍家の嫡子となった(「続徳川実記」「寛政重修諸家譜」「安倍家譜」)。

安倍信盛【あべ・のぶもり】 1584〜1673  90歳
 摂津守。岡部藩1万9200石の藩主。信勝の子。書院番、大坂定番。関ヶ原では本多正信に所属した。慶安2年(1649)大坂定番に任じられるとともに1万石加増され、大名となった(「寛永諸家系図伝」)。

安倍信之【あべ・のぶゆき】 1604〜1683  80歳
 弥一郎、丹波守。信盛の子。岡部藩2万250石の藩主。大坂定番。藩主となる際、弟2人に1千石ずつ分与するが、大坂定番就任にともない3千石加増された(「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」「徳川実記」「寛文印知集」「安倍家譜」)。

安倍信任【あべ・のぶより】 1809〜1828  20歳
 安三郎、丹波守。岡部藩2万250石の藩主。信操の長男。19歳で大坂加番に任じられるが翌年死去(「続徳川実記」「安倍家譜」)。

阿部正勝【あべ・まさかつ】 1541〜1600  60歳
 善右衛門、伊予守。徳川家臣。正宣の子。幼い頃から家康に仕え、人質時代を共に過ごした。家康の関東入府に際して足立郡鳩谷(鳩ヶ谷市)、市原に5千石を給された。慶長元年(1596)には豊臣姓をうける。

阿部正邦【あべ・まさくに】 1658〜1715  58歳
 対馬守。定高の子。14歳で叔父正春より岩槻9万9千石を相続するが、天和元年(1681)丹後宮津に転封となる(「新訂寛政重修諸家譜」)。

阿部政澄【あべ・まさずみ】 1593〜1628  36歳
 正次の長男。大坂の陣で戦功を挙げ2千石を与えられ、また寛永3年(1626)に7千石で岩槻に居城する。しかし、父正次から正式に家督相続はしていない。

阿部正喬【あべ・まさたか】 1672〜1750  79歳
 善七郎、出羽守、飛騨守、豊後守。忍藩10万石の藩主。正武の子。奏者番、寺社奉行、老中。8代将軍吉宗の「享保の改革」直前に老中職を辞した。その後藩政に力を入れるが、儒者三宅尚斎の諫言を疎ましく思い彼を獄に下した。その後赦免した時、先非を悔いこれを謝したという(「公余録」「公余附録」「寛政重修諸家譜」)。

阿部正武【あべ・まさたけ】 1649〜1704  56歳
 寅之助、美作守、豊後守、侍従。忍藩9万石の藩主。正能の子。藩主就任の際、弟3人に計1万石分与するが、2度にわたり各1万石ずつ加増されたため最終的に10万石となる。5代将軍綱吉の治世下で奏者番、寺社奉行、及び老中を務め、越後騒動の綱吉親裁の補佐、天和武家諸法度の制定、湯島聖堂再建等に腕を振るった。領内では忍城を修築して三階櫓や郭を新設したり、儒者三宅尚斎を招いて綱吉同様儒学を奨励した(「公余録」「公余附録」「寛政重修諸家譜」「土芥寇讎記」「武州埼玉郡忍行田史料拾遺」)。

阿部正允【あべ・まさちか】 1722〜1780  59歳
 帯刀、能登守、飛騨守、侍従、豊後守。忍藩10万石の藩主。正喬の弟正晴の子。正喬の子等が早世、病弱なため養子に入り、29歳の時跡を継いだ。奏者番、大坂城代、老中。治世下の秩父での年貢増徴反対一揆や伝馬騒動等が発生し苦難藩政を強いられた(「公余録」「公余附録」「寛政重修諸家譜」)。

阿部正次【あべ・まさつぐ】 1569〜1647  79歳
 徳千代、善九郎、備中守。正勝の子。徳川家康の臣。慶長5年(1600)父の遺領鳩谷5千石を継ぎ、6300石の知行をとる。のち5千石を加増され、弟に1300石を分与し鳩谷藩1万石の藩主となる。慶長15年(1610)5千石加増、元和2年(1616)7千石、同3年8千石をそれぞれ加増され上総大多喜藩主、同5年2万石加増され相模小田原藩主、同9年5千石加増され岩槻藩主となる。さらに新田1000石、寛永3年(1626)摂津国内にて3万石加増され計8万6千石を領する。この間、大番頭、伏見城番、奏者番、大坂城番を歴任。大坂城番時代、藩領岩槻は嫡子政澄が統治した。寛永15年(1638)正次は8万6千石のうち4万6千石を嫡孫重次(政澄は10年前に病没)、1万石を孫正令に分与し、自身は摂津国内の3万石を領し、大坂城内で没した(「新訂寛政重修諸家譜」)。

阿部正識【あべ・まさつね】 1764〜1803  40歳
 虎次郎、兵庫、美作守、豊後守。正敏の子。病弱のため役職には就かず、紀伊和歌山藩主徳川宗将の11男頼朴を養子として死去(「公余録」「公余附録」「寛政重修諸家譜」)。

阿部正敏【あべ・まさとし】 1732〜1787  56歳
 般之進、満之進、織部、能登守。忍藩10万石の藩主。正喬の5男。従兄正允の養子となり襲封した。奏者番、大坂城代。正敏の代は浅間山噴火、利根川大洪水と天災に見舞われ、藩財政は窮乏を極めた(「公余録」「公余附録」「寛政重修諸家譜」)。

阿部正権【あべ・まさのり】 1806〜1823  18歳
 正由の子。父の死後2歳で忍藩10万石の藩主となる。文政元年(1818)忍の足軽65名が諸手当の支給などを要求して強訴するという事件が発生、藩財政が底をついたことがうかがわれる。同6年陸奥白川に転封、同地で死去した(「公余録」「公余附録」)。

阿部正春【あべ・まさはる】 1637〜1716  80歳
 因幡守、伊予守。重次の次男。兄定高襲封の際、新田1万6千石を分与される。万治2年(1659)兄の死により遺領9万9千石を継ぎ、計11万5千石の岩槻藩主となる。この際、定高の子正邦がまだ幼少だったため、正邦成長ののちに遺領を還付することを約する。寛文11年(1634)、のちに「岩槻にすぎたるものが二つある。児玉南珂と時の鐘」と唄われる時の鐘を建造、同年正邦に岩槻9万9千石を還付し、自身は上総大多喜新田藩をおこした(「新訂寛政重修諸家譜」)。

阿部正能【あべ・まさよし】 1627〜1685  59歳
 徳千代、播磨守。阿部政澄の子。母は加藤清正の娘。寛永15年(1638)祖父正次より1万石分与され上総大多喜を居所とする。26歳で祖父の弟の子である忍藩主阿部忠秋の養子となる。寛文11年(1671)養父の隠居により襲封、従来の所領をあわせて9万石を領する。老中に着任するも病気のため3年足らずで辞任。忠秋の遺言により自分はその器でないことを自覚したためだともいう(「公余録」「公余附録」「寛政重修諸家譜」「徳川実記」)。

阿部正由【あべ・まさよし】 1764〜1808  45歳
 久米之丞、播磨守、侍従。忍藩10万石の藩主。紀伊和歌山藩主徳川宗将の11男。初名頼朴。奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を歴任(「公余録」「公余附録」)。

安保実光【あぼ・さねみつ】 ?〜1221
 次郎、刑部。新里綱房の次男。児玉郡安保郷(神川町元安保)の土豪。鎌倉幕府の御家人。頼朝に仕え、一の谷、奥州征伐で奮戦。承久の乱には80余歳で出陣したが京都宇治川で戦死。

安保信濃守【あぼ・しなののかみ】 生没年不詳
 実名不詳。新田義興に属した(「太平記」)。

安保修理亮【あぼ・しゅりのすけ】 生没年不詳
 安保光重の子孫。安保信濃守とともに新田義興に属して各地を転戦した。

安保綱房【あぼ・つなふさ】 生没年不詳
 三郎。秩父基房の次男。児玉郡安保郷(神川町元安保)の土豪安保氏の祖。

安保直実【あぼ・なおざね】 生没年不詳
 忠実、肥前守。光泰の子。足利尊氏に仕える。京都賀茂川において足利直義方の秋山光政と一騎打ちをした。

安保晴泰【あぼ・はるやす】 生没年不詳
 中務大輔。永禄6年(1563)の段階で武蔵・上野両国に知行を持っていた(「安保文書」)。

安保泰倫【あぼ・やすみち】 生没年不詳
 左衛門尉。泰広の子。後北条家臣。北条氏邦に属し、母を鉢形城に人質にだしていた。永禄12年(1569)の武田氏との合戦に戦功があった。(「安保氏系図」)

甘糟広忠【あまかす・ひろただ】 生没年不詳  
 野次。猪俣党。甘糟城主(美里村甘粕)。源頼朝に属して転戦した(「吾妻鏡」)

新井稲亭【あらい・とうてい】 1809〜1859  51歳
 埼玉群鹿室村(岩槻市鹿室)生まれの儒者。地元鹿室村に漢学塾を開いて近隣の子弟に教授した。

新井年信【あらい・としのぶ】 1829〜1912  84歳
 荘司。比企郡横田(小川町上横田)の新井家の生まれ。甲源一刀流を学ぶ。文久3年浪士隊に参加して上洛するが職を辞して帰郷し、道場を設けて門弟の指導にあたった。

新井智昭【あらい・ともあき】 1825〜1912  88歳
 勘四郎。秩父郡日野(荒川村日野)の名主の子。甲源一刀流の強矢良輔に剣術を学んで免許皆伝を受け、門弟を指導した。

新井孫助【あらい・まごすけ】 生没年不詳  
 足立郡庄左衛門新田村(草加市庄左衛門新田)の人。明和3年(1766)の大洪水の際に村内近村の人々に約二百日の間、毎日一合ずつの米麦を与えて救済した。また貧困者で年老いた父母を持つ者には毎年暮れに米2斗ずつ与えていた。幕府はその功を賞して苗字帯刀を許した。

荒木翠軒【あらき・すいけん】 1812〜1887  76歳
 大里郡豊里村新戎(深谷市新戎)の人。幼少時より学問詩歌に優れ、ペリー来航時に開国の建白書を大老に提出している。明治2年の備前掘取水口工事に住民が反対運動を起こした際、住民側について県や中央政府と渡り合い、ついに工事を中止させた。

荒木長善【あらき・ながよし】 ?〜1590
 四郎兵衛。成田家家臣。埼玉郡荒木(行田市荒木)で80貫の知行を得ていた。小田原城にて討死。

有田実基 → 夏目実基

安藤隆光【あんどう・たかみつ】 1223〜?
 駿河守。埼玉郡荒木(行田市荒木)の住人。康元元年(1256)親鸞の弟子となり、源海光信と改める。

安藤野雁【あんどう・ぬかり】 1815〜1867  53歳
 謙次、政美、刀禰。奥州桑折の人。国学を学び、48歳の時冑山村(大里村冑山)の根岸友山を訪ね、以後定着する。熊谷などに多くの門弟を持ち、和歌の教授に努めた。著書に『万葉集新考』『冑山防戦記』など。