それは、夏の夜に起きた、不思議な不思議なお話です――
遠くから響く、さざ波の音。
夜空に輝く無数の星たちが、地上をほのかに照らし出す。
時間の流れすらもおだやかに過ぐる夜の海岸に、藤井かすみは一人佇んでいた。
潮の香りを運んでくるそよ風が、かすみの体に心地よくあたる。
そして、かすみの眼前には、サーチライトの光に煌々と照らし出された巨大なオブジェ――空中戦艦『ミカサ』の船首があった。
久しぶりの休日に浴衣をめかしこんだかすみは、まるで誰かに誘われるかのように、このミカサ記念公園に来ていた。
夜も七時半をまわり、あたりはもう夜の帷が落ちていたが、公園内に複数の帝都市民が訪れているのがガス灯の明かりに照らし出されてわかる。
一人海を見つめるかすみの後ろから、笑い声の混じった楽しげな雰囲気の若い男女2人組が通り過ぎていった。
かすみはその場で振り返り、その男女を見やる。
二人は手を繋ぎながら楽しそうに話をしている。お互いに満面の笑みを浮かべつつ、並んで歩いていた。
誰が見てもうらやむような恋人同士である。
二人につられてか、かすみも自然と笑みをこぼす。
しかしその瞳には、どこか寂しげな光を宿していた。
かすみは今年25歳になった。
故郷茨城を出て早6年。天職とも言える帝劇での仕事に、かすみは充実した毎日を送っていた。
だが、そんなかすみにも一抹の不安――というか悩みがあった。
その原因は月に1、2度送られてくる、茨城の両親からの手紙にあった。
懐かしい故郷の事、両親の事が便せんいっぱいにしたためられているその手紙を読むのは、かすみの楽しみの一つであった。
が、その手紙にはほぼ毎回、次の様な内容が添えられていた。
『今度、誰それの娘さんが結婚する――』
かすみはその文面を目にする度に、いたたまれない気持ちになっていた。
25歳と言えば、結婚していてもおかしくはない――むしろ遅い年齢である。
現にかすみの女学校時代の友人も、そのほとんどが結婚し、家庭に入っていた。
そして、見合いを勧める手紙も、既に何通か届いていた。
だがかすみはそのすべてを断っていた。
その時に両親に告げる理由は、
「今は仕事が楽しいから」
と、いつも決まったものだった。
だが、本当の理由は別にあった。
それは他でもない、心に決めた男性がいるからである。
しかしそのかすみの思い人には幾人もの女性がかすみと同様想いを寄せている。その女性たちもまた、かすみにとって大切な友人、そして仲間達だった。
また、かすみ自身もその男性に思いを告げられずにいた。落ち着いた雰囲気が魅力的なかすみだが、それがために一歩引いてしまう面もあった。
だが決してかすみはあきらめなかった。ただ一途に、ただひたすらにその人を思い続けた。
その反面、もどかしさも感じずにはいられなかった。もどかしさは焦りへと変わり、かすみの胸を苦しめた。
男女二人は次第に夜の闇の中へと消えていき、その場には再びかすみ一人だけとなった。
言いようのない寂しさ、孤独さがかすみを包み込む。
そんな中でもかすみは笑みを絶やすことはなかった。寂しいときにも微笑んでしまうくせがかすみにはあった。
自分で自分を抱き込むようにしながら、かすみは海岸に沿って歩き始めた。
脇に広がる海を見ることもなく、後ろを振り返ることもなく。かすみはただひたすらに歩き続けた。
『ミカサ』はすでに遙か後方のものとなり、サーチライトの明かりも小さく見える。
公園内を照らすガス灯の明かりも届かないはずれまで来たとき、かすみはようやく足を止める。
そして海を見つめたまま、しばしじっとして動かずにいた。
かすみの全身を、一陣の風――夏のものとは思えぬほどの冷たい風が吹き抜けていった。
と、次の瞬間。かすみの眼前にまばゆい光が飛び込んできた。
その光は夜を飲みこまんとする程で、あたり一帯を照らし出していく。
「あ……」
かすみは思わず息をのんだ。
水平線の彼方から、煌々と光輝く月が昇り始めたのである。
満月の少し欠けた十六夜の月ではあるが、その見事なまでの姿は見るものの心を魅了してやまない。
かすみはしばし時を忘れ、海面に昇る月を眺めていた。
やがて、一条の月明かりが水面をきらきらと輝かせた。
まるで、あの月へと通じる一筋の道のように。
「きれい……」
かすみは言葉では言い表せないほど感動していた。
この世にこれほど美しい光景が存在していたのか――
しばし光景に見とれていたかすみだが、ふと、海の上に何かの影をみとがめた。
月明かりに照らし出されたその影は、よく見ると人の形をしている。そして、ゆっくりと自分の方へ近づいて来るではないか。
「……え……?」
かすみは自分の目を疑った。海の上を人が歩いている?
その人物は月光の作りだした道を一歩一歩、しっかりとした足取りで歩いている。
やがて、かすみにも姿がはっきりと見て取れるようになった。
細面で長身の、若い男のようである。服装はとても古風な、例えるなら飛鳥・奈良朝のものに似ていた。
その顔には表情がなかった。が、どこか安心できるような、そんな暖かさがにじみ出ていた。
「あなたは一体……?」
かすみはどこか恐怖を感じながらも、なんとか声を絞り出して訊ねる。
――吾が名は月読。陰なる夜と海原を治むる者……
男は抑揚のない声で応えた。だが、どこから声が聞こえてくるのか、かすみにはわからなかった。
「『つくよみ』……」
――吾、汝の心に呼ばれ来たり。汝が声を聞かせよ
「あ、あの……私には、好きな人がいます。本当に好きなんです。でも、他にもその人を好きな人がいます……皆、私にとって大切な仲間です。私は一体どうすればよいのでしょうか……」
かすみ自身、何故こんな事を話しているのかわからなかった。ただ自然と、胸のうちに抱える不安が口をついて出たのである。
月読は右手をゆっくりと挙げる。すると、一羽の海鳥が挙げた右手にとまった。
――彼の鳥は自然に素直に順応し、生をかなでている。心のままに、生を楽しんでいる
かすみは黙って月読の言葉に耳を傾けている。
――鳥とて出来ること、汝ら人間に出来ぬいわれはない。汝が心のままに、素直に生きよ――
「心のままに、素直に……」
言葉を反芻するかすみ。それを見るや、月読は小さく頷き、そして――
「――あ……!」
かすみが気が付くと、すでに月読の姿は無く、先程と同じような穏やかな海だけが眼前に広がっていた。
ただ唯一違っているのは、さっきはなかった月が、今や天高く輝いていることだけだった。
「今のは……」
幻だったのか? それとも夢でも見ていたのだろうか。
何とも不気味なことだが、一方でかすみの心は晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
「自分に素直に、か……」
自分に言い聞かせるように呟く。
かすみは思った。今のは自分の悩みを解決するために、天からくだされた奇跡なのだと。
そして、自分の心の奥底に隠れていた本当の気持ちが、この様な形で姿を現したのだと――
かすみは海岸を再び、歩き出した。
その笑顔には、もはや寂しさは微塵も見られなかった。
これは、夏の夜に起きた、不思議な不思議なお話です――
〈つきのみち 了〉