明冶維新に伴って興った文明開化は、従来の日本文化に対して大きな影響を与えた。
たとえば文学。二葉亭四迷の『浮雲』をきっかけとするロシア写実主義や森鴎外のドイツロマン主義、それに反する流れをとる幸田露伴・尾崎紅葉らによるいわゆる「紅露逍鴎」期以降、太正の世にいたるまでさまざまな作家が現われ、数多くの作品を残していった。
そしてその流れは、万葉の昔より脈々と受け継がれてきた日本の伝統詩文、和歌にも影響を及ぼしていった。
浅香社の落合直文以降、様々な流派が興ったが、その中で特筆すべきなのはやはり新詩社の流れを汲む浪漫主義派であろう。
耽美的・情熱的と形容されるその歌風は、機関紙『明星』で発表されるやたちまち世の乙女たちをとりこにしていった。
その歌壇の中心となっていたのが、言わずと知れた与謝野晶子である。
晶子の歌は大胆かつ官能的であり、また絵画的イメージにあふれる唯美歌としてもてはやされた。また、夫・鉄幹との情熱的な恋愛もあいまって、日本中の大和撫子たちに支持されたのである。
太正に入り、歌壇の中心は写実主義のアララギ派にとってかわられたが、晶子らの歌風は女性たちにしっかりと受け継がれ、決してすたれる事はなかった。
そして――太正14年、夏。銀座大帝国劇場に、晶子に負けず劣らぬ愛と情熱にあふれる一人の麗若き乙女がいた。
「うーん、“春過ぎて”……じゃなくて、“夏来たりて”の方がいいかしら……」
この春、大帝国劇場2階に新たにお目見えした遊戯室。
蓄音機やビリヤード台が常備されており、花組の面々の憩いの場となっている場所である。
今、その部屋に一人立ち、筆を手にしながら何やら考え事をしている女性の姿があった。
真宮寺さくら。恋に恋する19歳。
とはいえ、明日7月28日をもって晴れて20歳となる。
そんなさくらが今夢中になっているのが『和歌』なのである。
ふとしたきっかけで読んだ与謝野晶子の歌集『みだれ髪』と『恋衣』に感銘を受けたさくらは、自分も挑戦してみようと筆を執ったわけである。
しかし、どうもうまくいかない。自分の心のうちにある想いを書けばよいのだろうが、31文字という字数にうまくあてはめるのは至難の業である。
さくらの想い――それは言うまでもなく大神に向けられているものである。自分の大神への想いをつづる――さくらの詠歌はその一点に絞られていた。
だが照れもあるのだろう。うまく言葉としてあらわすことができなかった。
「うーん。これも違うわ」
そう言うとさくらは手にしていた書きかけの短冊をごみ箱に放った。
遊戯室のごみ箱は書き損じの短冊ですでにあふれかえっていた。それだけさくらが悩み、考え込んでいるという事だろう。
「こういうものはインスピレーションよね。あせらずに、あせらずに……」
さくらは胸に手をやると一つ深呼吸をし、再び短冊と筆を手にした。
しばし考え込むさくら。
「季節にこだわらずに“一年の”ってしてみようかしら……それとも無理に季節感を出さないで――
なら――“我が胸の”……」
何やらひらめいたのか、さらさらと筆を動かしていく。
だが、半ばまで来て筆がぴたりと止まってしまった。
「あーんもう! 下の句が思い浮かばない……」
再び頭を抱え込むさくら。どうやら上の句は決まったようだが……
次の瞬間。
「あーっ、さくら、こんなところにいたんだ」
と、無邪気な声をあげて遊戯室に入ってきたのはアイリスである。
「えっ? ア、アイリス!?」
さくらはびっくりして手にしていた短冊を慌てて後ろに隠す。
「? 何やってるのさくら?」
アイリスが不思議そうに覗き込んでくる。
「な、なんでもないの。あ、あははは……」
さくらは乾いた笑い声でアイリスにこたえた。
さくらは後ろ手で、短冊を戸棚に隠すとアイリスに気づかれないように話し掛ける。
「と、ところでアイリス、あたしに何か用があるの?」
「あっ、そうそう。マリアがね、次のぶたいの衣装あわせしたいから、衣装部屋まで来てちょうだいって」
「ほんと。わかったわ、いっしょに行きましょ」
さくらはアイリスの手を取ると遊戯室から出て行こうとした。
「も〜、アイリス、ひとりでいけるもん」
そうぶ〜たれるアイリスだが、さくらは手を離そうとしなかった。
万が一アイリスに遊戯室に戻られて、あの短冊を見られたら一大事だからだ。
(だって……あんな恥ずかしいもの、他の人には見せられないものね)
さくらは胸のうちでそうつぶやくと、アイリスとともに1階へ降りていった。
さて、その日の夜。遊戯室の扉を開いて中に入る者がいた。
「さて……次はここだな」
懐中電灯片手の大神である。どうやら夜の見回りらしい。
大神は懐中電灯でぐるりと部屋を照らしていく。
途中、壁掛けのカレンダーのところで手が止まる。
「そういえば明日はさくら君の誕生日か……何かプレゼント考えなきゃな……」
そうつぶやくと、再び手を動かす。
一回りしたが何も変わりがないようだ。大神は部屋を出ようと扉に向かう。
「うん。ここは異常ないな……ん、あれは?」
ふと、大神は足を止めてドア近くの戸棚を照らす。どうやら何か見つけたらしい。
それは戸棚の引き出しからわずかにはみ出していた、細長い紙のようなものだった。
大神は懐中電灯でそれを照らし出してみる。
「……短冊?」
そう、それはまぎれもなく短冊だった。
「ずいぶん綺麗な字だな……どれどれ」
大神は短冊を手に取ると一通り目を通してみる。
「何か見覚えのある字だけど――確かこの字は……さくら君の……」
大神はしばし短冊に目を落としたまま、何事か考え込んでいた――
翌日。
「あ、あれ? 確かここに……」
遊戯室の中で一生懸命探し物をしているさくらの姿があった。
昨日はマリア、アイリスと衣装あわせに夢中になってしまい、短冊をうっかりそのままにしてしまったのだ。
今朝になってその事に気がついたさくらはあわてて遊戯室にやってきた。しかし、どこを探しても短冊は見つからない。
(まさか……誰かに持ってかれちゃったんじゃ……)
さくらはそう思うと恥ずかしさのあまり一人顔を赤らめる。
「と……とにかく、早いとこ見つけなくっちゃ」
そう呟くとさくらは再び遊技室内を探し回った。
「あーあ、ほんとどこいっちゃったんだろ……」
ため息なぞつきながら、さくらは帝劇内を自室へ向かって歩いていた。
あれから遊戯室だけでなくサロンや書庫、はては地下倉庫まで探して回ったが、短冊はいっこうに見つからなかった。
「これはもう、誰かが持ってっちゃったってことよね……はあ、きっと笑われてるんだろうなあ……」
さくらはがっくり肩を落として歩いている。気が付くと、そこはもう自分の部屋の前だった。
「はぁ……」
さくらは大きなため息を一つつくとドアノブに手をかけた。
と、その時。ドアの隙間に何かはさまっているのを発見した。
「あら、何かしら……」
それは白い包み紙にくるまれた、何か細長いものだった。
さくらは包み紙をゆっくりと開ける。するとそこには。
「あ……」
さくらは中身を見て思わず声を上げた。そこには短冊が2枚入っていたのだ。
一枚は白地に金の縁取りのある短冊。もう一枚のは四隅に金泥で花びらがかたどってある短冊である。
うち金縁の短冊には見覚えがあった。
「“我が胸の 想いに映える 恋桜”――あたしが昨日書いたものだわ!」
そう。今までさくらが一生懸命さがしていたあの短冊であった。
では、もう一枚の短冊は一体――
「こっちの短冊は……あっ」
さくらはその短冊の文面に目を通すと、思わず息をのんだ。
そこには力強く、しかし優しい雰囲気もにじみ出ている字でこう書かれていた。
「“君と二人で 見事咲かせん”……」
それは、さくらの創った上の句に対する下の句であった。
「――“我が胸の想いに映える恋桜 君と二人で見事咲かせん”――」
上の句と下の句、2つを繋げて読んでみる。
それは、美しく咲き誇る桜の花と、それを見上げる恋人同士――という光景をさくらに抱かせるほど、情熱と愛情にあふれていた。
しばし現世(うつつよ)を忘れ、夢想にふけるさくら。
だがふと、あることに気が付く。
「でも、一体誰がこの句を……もしかして!」
さくらの考えはとある人物に辿り着く。自分にこんな事をしてくれるのは、あの人しかいない――
次第に激しくなる胸の鼓動を感じながら、さくらは短冊を包んでいた包み紙を手に取る。
包み紙の裏面には短冊のものと同じ字でこうしたためられていた。
真宮寺さくら殿 誕生日おめでとう 大神一郎
はたしてそこにはさくらの思った通りの名があった。
「大神さん……大神さんが、あたしに……」
さくらは胸の詰まる思いがした。大神が自分にこの様な形で返歌を贈ってくるなんて――
さくらはしばし包み紙を見つめていた。
そして、包み紙に2つ3つ、水滴のあとが広がる。
――涙。そう、さくらの瞳からは数滴の涙が滴り落ちていた。
「あはっ……あたし、なんで泣いてるんだろ……こんなにうれしいのに……
本当、あたしったら泣き虫……なん、だから……」
さくらは2枚の短冊を抱くように胸に埋めると、顔を伏せしばらくの間むせび泣いていた。
我が胸の想いに映える恋桜 君と二人で見事咲かせん
さくらは胸のうちで、この歌を何度も何度も詠みかえし続けた――
〈短冊に想いを込めて 了〉