中天の太陽が発する鋭い日差しが焔のように燃ゆる盛夏の昼下がりのことであった。
 江戸は京橋にある剣術道場の前で、一組の男女が道場から聞こえる竹刀のぶつかる音と稽古の歓声とに耳を傾けていた。
 男の方は30ぐらいの武士。背は5尺4寸程と高くもなく低くもなくといった所だが、骨格たくましく見るからに武芸者といった風体である。
 女の方はまだ15,6ぐらいか。身軽な旅装束だが、他の女性と違うのは、肩に6〜7尺ほどの長道具を持っていることだった。穂先を袋で覆っているところを見ると、槍か何かであろうか。
 男が女の方を振り向き、目で合図を送る。女が小さく頷くのを見届けると、道場の方へ歩みを進めた。
 二人が道場の門をくぐった。門には「桶町玄武館」と書かれた看板が掛けてあった。
「御免。お頼み申す」
「どれ、どちら様で」
 玄関から男が声をかけると、返事に続いて門人らしき男が奥から出てきた。
 男は会釈をしながら言った。
「それがし、相州小田原藩士神崎藤次郎忠尭と申す者。神崎風塵流長刀術をたしなんでおりまする。こなたの先生に一手ご教授願いたく、推参つかまつりました」
 門人は暫くお待ちをと言うと、奥の道場へと消えていった。

 道場では何十人という者が竹刀を手に稽古に励んでいた。
 その真ん中で打ち込み稽古をしていた初老の男性に、先程の門弟が近づいていった。
「千葉先生。他流試合の者がまいっております」
 道場主の名は千葉定吉と言った。当代隆盛を極める北辰一刀流免許皆伝の腕前である。
「他流試合か。して、いずれの流派の者か」
 定吉は額の汗を拭いながら門人に問うた。
「それが剣術家ではありませぬ。神崎風塵流という長刀遣いの者らしゅうございます」
「なに、長刀と。これは珍しい。よし、お通ししなさい」
 門人は一礼して再び玄関へと戻っていった。定吉は一旦師範席に戻ると、壁に掛けてあった稽古用の長刀を手にする。
 樫の木で出来たそれは刀身1尺、柄が6尺の一般的なものである。軽く素振りをしてみる。びゅうんと空を切り裂く音が道場内に鳴り響き、稽古中の門人達の手を止めさせた。
「うむ。長刀の方は重太郎に任せきりでしばらくぶりだが、腕は衰えてないようだな」
 自らに集中した門人達の驚きの視線を感じつつ、少し照れ気味に呟いた。重太郎とは定吉の長男のことである。
 やがて、道場の入り口から件の男女二人が入ってきた。門人達の間にざわめきの小波が起こる。普通この様な他流試合の時、挑戦する側は数人の供の者を連れている者である。それが流派の師範なら門弟を、藩士ならば藩の人間を連れてくるのが当たり前だ。そのどちらにも当てはまる藤次郎の供がたったの一人、しかも若い女性とは――
「お初にお目にかかります。それがし小田原藩大久保家が臣、神崎藤次郎と申します。此度は早速の願い入れありがたく存じまする」
 師範席の定吉に深く礼をしながら丁寧な挨拶をする藤次郎。
「これはこれはご丁寧に恐れ入る。それがしが当道場の主人千葉定吉と申す。どうぞお見知り置きの程を」
 定吉も深々と頭を下げて応えた。
「して、藤次郎殿は神崎風塵流の長刀を遣うと聞きましたが」
「左様にございます。父祖伝来の神崎風塵流長刀術の血脈を引き継いでおります」
「なに。すると貴殿は神崎風塵流宗家であられるのか」
「はい。宗家を名乗るほど栄えてはございませんが」
 苦笑しながら藤次郎は答えた。
「御宗家の方と試合が出来るとはこの上ない喜び。早速試合といたしましょう」
 そう言うや定吉はすっくと立ち上がった。門人の一人が防具を持ってくる。
「先生自ら立ち合っていただけるのですか」
 藤次郎は少なからず驚いた。この頃の道場での他流試合と言えば、まず師範代ほどの実力の者が数人立ち会ってから、ようやく道場主が相手をするというのが普通である。そうすることで、初めて対戦する相手の技や癖を研究し、勝つための算段がたてられるからである。
 そうこうするうちに、定吉はてきぱきと用意を調える。藤次郎も道場脇に下がった。防具の準備は既に女が終えていた。
 防具を付けた二人が道場の中央にて対峙する。定吉は藤次郎の持つ長刀を見ておもわずほぅと小さな声をあげた。藤次郎の練習用長刀は刀身の反りがほとんどなく、槍と見まごうかのようだった。
(これはちとやりづらいかもしれぬわ)
 内心で定吉は困惑していた。長刀の試合を数多くこなしてきた定吉も、この様な長刀を遣う者は初めてだったからである。
(まあよい。ならば槍に対するが如くあしらうまでよ)
 蹲踞の後立ち上がる。二人とも長刀を構えた。定吉は右手前の中段の構え、藤次郎はなんと右手一本で持ち、脇へだらりと長刀を垂らしていたのだ。ちょうど柳生新陰流の無形の構えに似ていた。
 周囲からどよめきの声が挙がった。もちろん定吉も当惑している。この様な構えは初めてだからである。いかように攻めたらよいのか、定吉には分からなかった。
 不意に、藤次郎が両手で長刀を構えなおした。そしてそのまま定吉に向けて突きを繰り出す。
 定吉は咄嗟に防御の姿勢をとり突きを防いだ。が次の瞬間、藤次郎は長刀を左後方にそらせ――
「はっ!」
 気合いと共に、身体を軸に回転した。当然長刀も藤次郎を中心に弧を描く。
 唸りをあげて、長刀の刃が定吉を襲った。身体をよじってなんとかかわす。
 ちょうど一回転したところでぴたっと止まった。右手のみで構えられた長刀の刃がまっすぐ定吉を捉えている。
 一見すると隙だらけの構えだが、定吉は動けなかった。隙があるようで、隙がなかった。
 そのまま暫くの時が流れた。定吉が誘い出すように長刀を動かす。同時に藤次郎も動く。長刀が交わるかと思えば離れ、離れたかと思えばまた近づく。
 定吉は攻めあぐねていた。防御の態勢を取りながら後の先を狙っているのである。
 一方の藤次郎もまた決め手がないままでいた。最初の一撃の後技を決められずにいたのは、定吉の構えが完璧だったからである。
「勝負そこまで」
 半刻が過ぎてのち、検分役の師範代が両者の引き分けを宣言した。これ以上続けても勝負は付かないと見たからである。
 礼をして下がる二人は、ともに全身汗だくで顔に疲労の表情を浮かべていた。
 定吉の所に藤次郎が近づき、一礼した。
「千葉先生、この度は良い勉強をさせていただきました」
「何をおっしゃる。藤次郎先生の腕前こそまこと感服の至りです。こちらこそ、良き手合わせが出来まして嬉しく思いますぞ」
 定吉も頭を下げる。先程と違って丁寧な応対になっていた。
「よろしければ、神崎風塵流の流儀についてご教授願いたいのですが」
「その前に、我が門弟にも一手立ち会って頂けないでしょうか」
「門弟とは」
「あれに控えし者にございます」
 藤次郎の視線の先には連れの女性の姿があった。定吉が目をやると、女は一礼した。
「あれなる女性でございますか」
「はい。神崎風塵流は主に女中女房に指南しておりますれば、門人も女性がほとんどであります。が、腕の方は確かでございます」
「そうですか……となれば、立ち会うに打ってつけの者がおります。おい」
 そう言うと定吉は門人の一人を呼びつけた。
「佐那子を呼んできてくれ」
「お嬢様はお玉が池の道場へ使いに出ております。あと一刻もすればお戻りになられるかと」
「そうか。しかし藤次郎殿達をお待たせするわけにもいくまい。おぬし、ちと呼びにいってくれぬか」
「承知いたしました」
 門人が一礼して下がると、藤次郎が声をかけてきた。
「失礼ですが、佐那子殿とは」
「私の娘でございます。剣術では中目録ですが、長刀では既に免許皆伝の腕前。きっと良き試合を見せてくれましょうぞ」
「そうでございましたか。先生のお嬢様にお手合わせ願えるとは奈美も喜ぶでしょう」
「奈美殿と仰せられるか」
 藤次郎の連れの女性――奈美が定吉の元へ近づく。
「小田原藩士福島弥兵衛の娘、奈美にございます。よろしくお願いいたしまする」
「まだ子供のように見えるが……おいくつになられる」
「14にございます」
「なに、14」
「はい。しかしながら長刀の腕は年長のものをはるかに凌いでおりますれば、後学のためにと連れてまいりました」
 驚く定吉に、藤次郎が答えた。
「ほう。それは立ち合いが楽しみですな。して」
 奈美と相対していたときの愛嬌ある表情から一変、真面目な顔つきになった定吉が膝を前にすすめて藤次郎に語り掛けた。
「先程藤次郎先生がお使いになった技は、いかなる技にござろうか」
「あれは神崎風塵流の技のひとつで『連雀の舞』と申します」
「『連雀の舞』とは美しい名前ですな。それでいて、実に力強い」
「神崎風塵流は優雅と躍動を両柱としておりますゆえ」
「そうでしたか。奥女中に広く流布しているというのも納得いきます」
 その後も、藤次郎と定吉は長刀の技についてあれこれと議論をかわす。そうするうちに、四半刻が過ぎた。
「先生、佐那子お嬢様がお帰りになりました」
 先程の門人が戻ってきて、定吉に告げた。
「そうか。して、何をしておる」
「立ち合いと聞いて、早速準備しております」
「お待たせしました」
 道場の入口から、凛とした声が響いた。
 そこには、白稽古着に白袴、右胸に月を象った金紋のある黒漆胴を付けた少女が立っていた。佐那子である。
 年の頃は17,8。顔立ちにあどけなさが残るが、その両眸には光の増す夕月のごとく輝いていた。
「佐那子さんですね。奈美と申します。本日はお手合わせ願えまして、大変嬉しく存じます」
 奈美がすっくと立ち上がり頭を下げる。佐那子もまた頭を下げ一礼した。
 佐那子が父定吉のもとへ来て何事かを告げた。その間に奈美は道場脇に下がり、防具の準備を始めた。
 やがて、白稽古着藍袴、紅き胴を身につけた奈美が、右手に練習用の長刀を構えて道場の中央へと来た。
 佐那子もまた、長刀を手に道場へ上がる。検分役には重太郎がついた。
 一礼して構える二人。それを見届け、重太郎が右手を挙げた。
「勝負三本。始め!」



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