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三尾谷広徳【みおや・ひろなり】 生没年不詳
 四郎。源頼朝の臣。三保谷郷(比企郡川島町表)出身。

三上里恵【みかみ・りえ】 1753〜1837 85歳
 入間郡所沢村(所沢市)の豪商三上半次郎の妻。夫の影響を受け俳諧の道に進み、二世野遊亭と称する。句集に『里恵女句集』『今牡丹帳』など。

見川喜蔵【みかわ・よしぞう】 1739〜1805 67歳
 埼玉郡粕壁宿(春日部市)の名主。浅間山噴火による飢饉に際しては富者を説いて援助を出させたり、暴動を起こそうとした農民達を説得、米商人達に米の値下げを約束させるなど、貧民の救済に尽力した。また古利根川に自費で堤防を築き、水害から村々を救った。これらの功績により幕府は苗字帯刀を許した。

御宿隼人佑【みしゅく・はやとのすけ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。小田原衆の1人。入西郡勝呂郷広野(川越市広谷、鶴ケ島市上広谷、五味ヶ谷)で26貫536文を領した(「役帳」)。

三田三五郎【みた・さんごろう】 1752〜1824  73歳
 暉房。埼玉郡持田村(行田市持田)の農民の子。戸賀崎熊太郎に神道無念流を学び、剣術師範として忍藩に5人扶持で召し抱えられる。主家転封先の奥州白河で死去。

三田綱秀【みた・つなひで】 生没年不詳
 弾正少弼。後北条氏の家臣。他国衆の一人。武蔵勝沼城主(東京都青梅市)。入東郡上奥宮、三木村(狭山市上奥宮、東三ツ木)、高麗郡河崎(飯能市川崎、下川崎)、大谷沢、平沢(日高市大谷沢、下大谷沢、南平沢、北平沢)等に507貫900文を領していた(「役帳」)

源仕【みなもと・つこう】 生没年不詳
 武蔵守。源宛の子。箕田源氏の祖。足立郡箕田(鴻巣市大間)の 源経基館に居住したと伝えられている。

源経基【みなもと・つねもと】 生没年不詳
 清和天皇の皇子、貞純親王の子。六孫王。清和源氏の祖。武蔵介。藤原純友の乱の平定に活躍。足立郡箕田(鴻巣市大間)に館を構えたと伝えられる(「新編武蔵風土記稿」)。

源範国 → 吉見範国

源範頼【みなもと・のりより】 ?〜1193
 源義朝の子。頼朝の兄。平治の乱ののち吉見郡吉見(比企郡吉見町御所)に居住して成長。のち兄により正式に吉見の地を与えられる(「新編武蔵風土記稿」「吉見観音縁起」)。

源義賢【みなもと・よしかた】 ?〜1155
 帯刀先生。源為義の次男。秩父次郎大夫の養子となり東国へ下る。比企郡大蔵(比企郡嵐山町大蔵)に館を築き、居所とした。大蔵九郎大夫経長の娘をめとり、しだいに武蔵武士を配下に従えていった。久寿2年(1155)甥の悪源太義平に討たれる。義賢の勢力が強くなっていくのを、兄の義朝が見逃せなくなったためだという。

宮城為業【みやぎ・ためなり】 1533〜1588 56歳
 四郎兵衛尉、美作守。政業の子。岩付太田氏、のち後北条氏に仕える。舎人郷(桶川市舎人新田のことか)を与えられていた(「豊島宮城文書」)。

宮城政業【みやぎ・まさなり】 1495〜1589 95歳 
 中務丞。はじめ岩付太田氏家臣。太田氏房により足立郡大まき(浦和市大間木もしくは大牧)を宛われていた。

宮城泰業【みやぎ・やすなり】 1556〜1591 36歳
 四郎兵衛尉、美作守。為業の子。太田氏房に仕える。川口郷(川口市川口のことか)・大間木郷(浦和市大間木)に284貫430文の知行を得ていた。総勢36人の軍役を負担し、馬上奉行をつとめていた。小田原落城後は主君に従って高野山へ上り同地で死去(「豊島宮城文書」)。

三宅尚斎【みやけ・しょうさい】 1662〜1741 80歳
 重固。重直の子。忍藩士。山崎闇斎に儒学を学び、佐藤直方、浅見絅斎とともに崎門の三傑と称した。貞享4年(1687)阿部正武に招かれ、忍藩に仕える。以後、藩主の相談役となるが、宝永4年(1707)阿部正喬の勘気を被り獄に繋がれる。のち放免となり京都で諸侯に講義した。

三宅康貞【みやけ・やすさだ】 1544〜1615 72歳
 惣右衛門。政貞の子、鳥居元忠の孫。徳川家康の臣。姉川や長篠、甲斐進出などに活躍。家康の関東入国により、大里郡瓶尻(熊谷市三ヶ尻)に5千石を与えられる。慶長9年(1604)三河挙母に1万石で移った。