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巻島主水助【まきしま・もんどのすけ】 生没年不詳
 実名不祥。古河公方足利家家臣。埼玉郡間釜(北埼玉郡栗橋町間鎌)を与えられていた(「武州文書」)。

牧野信成【まきの・のぶしげ】 1578〜1650 73歳
 千鍋、九右衛門、豊前守、内匠頭。康成の3男。慶長4年(1599)父の遺領足立郡石戸(北本市石戸)5千石を継ぐ。関ヶ原に従軍。大番頭、御小姓組番頭、御書院番頭、御留守居役などを勤める。大坂の陣では大砲によって櫓を破り、賞せられた。寛永3年(1626)2千石、同10年(1633)4千石加増され、石戸藩主となる。正保元年(1644)6千石を加増され下総関宿藩に転封されるが、旧領石戸は子の尹成に与えられ、のち旗本牧野家の所領となった。

牧野康成【まきの・やすしげ】 1548〜1599 52歳
 惣次郎、半右衛門、讃岐守。定成の子。初め今川家に仕えていたが、永禄8年(1565)から徳川家康に仕えるようになる。数々の戦功を挙げ、関東入国の際に足立郡石戸に5千石を与えられる。

正木勝英【まさき・かつひで】 ?〜1591
 丹波守。忍藩士。天正18年(1590)埼玉郡佐間(行田市佐間)に佐間高源寺を創建した。

真下伊豆守【ました・いずのかみ】 生没年不詳
 三波殿。児玉党。室町前期の人物。三波石峡(児玉郡神泉村矢納)を愛し、その語源ともった

増田重富【ますだ・しげとみ】 ?〜1487
 四郎。幡羅郡増田(深谷市上増田)に居住していたが、関東管領上杉氏により増田の地を追われ、男衾郡野原村(大里郡江南町野原)に文殊寺を建立、同地で死去した。

町田右衛門佐【まちだ・うえもんのすけ】 ?〜1597
 実名不祥。北条氏邦の臣。加賀金沢で没した氏邦の遺髪を鉢形城下で埋葬し、自らも殉死した。

松平家清【まつだいら・いえきよ】 1566〜1610 45歳
 与次郎、玄蕃頭。清宗の子。竹谷松平。家康の異父妹多劫姫を妻とする。天正18年(1590)、児玉郡八幡山(児玉郡児玉町八幡山)に1万石を賜る。その年の内に、「新たに城下に移り住む者には来年の諸役を免除する」という触れを出して、城下繁栄策を講じている。関ヶ原後、三河吉田藩3万石に転封となった(「家忠日記」「寛政重修諸家譜」「寛永諸家系図伝」「新編武蔵風土記稿」「武州之内御縄打取帳」)。

松平家忠【まつだいら・いえただ】 1555〜1600 46歳
 又八郎、主殿助。伊忠の子。深溝松平。三方ヶ原、長篠で活躍。家康の関東入国の際に、忍城1万石を与えられる。文禄元年(1592)上総香取郡代、のち上総小見川藩主。関ヶ原では鳥居元忠とともに伏見城に篭り、同城で戦死(「家忠日記」)。

松平家広【まつだいら・いえひろ】 1577〜1601 25歳
 亀千代、内膳正。忠正の子。桜井松平。7歳で家督を継ぐ。天正18年(1590)比企郡松山城(吉見町北吉見)と1万石を与えられ、松山藩初代藩主となる(「寛永諸家系図伝」)。

松平忠国【まつだいら・ただくに】 1815〜1868 54歳
 匡丸、匡一郎、少将、侍従、駿河守、下総守、織部正。奥平松平。伊勢桑名藩主松平忠翼の5男。兄忠彦の死後、忍藩10万石の藩主となる。嘉永6年のペリー来航後、品川第3台場警備を命じられる。安政期は災害が相次いで藩財政が逼迫したため、忠国は家臣の家禄を6分減にしたり、幕府から排借金を賜うなどして急場をしのいでいる。一方、藩士を江川英竜に弟子入りさせるなど、西洋兵学の導入にも力を注いだ。文久3年(1863)隠居(「続徳川実記」「諸侯年表」)。

松平忠彦【まつだいら・たださと】 1805〜1841 37歳
 式部大輔、侍従、下総守。奥平松平。伊勢桑名藩主松平忠翼の3男。兄忠堯の養子となる。忍藩10万石の藩主。藩主在任2年余で死去(「続徳川実記」「諸侯年表」)。

松平忠誠【まつだいら・ただざね】 1840〜1869 30歳
 八五郎、左膳、侍従、下総守、少将。下野烏山藩主大久保忠保の弟忠声の子。松平忠国の養子となる。忍藩10万石の藩主。文久3年(1863)京都警備を命じられ、翌年品川第1台場警備にあたる。同年天狗党の乱の鎮圧に出兵。慶応2年(1866)再度京都警備を命じられる。この間領内秩父にて世直し一揆が発生、鎮圧するために藩兵を出した。維新前、佐幕・倒幕に反論が分かれたが、隠居の身である前藩主忠国が新政府に帰順を決定。奥州戦争に出兵している。明治2年(1869)に藩校洋学館を開校するも、同年死去(「要中録」「諸侯年表」)。

松平忠堯【まつだいら・ただたか】 1802〜1864 63歳
 鶴松丸、上野介、民部大輔、下総守、修理大輔。奥平松平。伊勢桑名藩主松平忠翼の長男。文政4年(1821)襲封。同6年忍藩10万石に転封となる。藩主となった翌年には藩校進修館を開校、藩士の教育に力を注いだ(「要中録」「武州埼玉郡忍行田生活史料集成」「諸侯年表」「続徳川実記」)。

松平忠周【まつだいら・ただちか】 1661〜1728 68歳
 阿波守、伊賀守。藤井松平。7歳で兄忠昭の養子となる。初め丹波亀山藩3万8千石の藩主だったが、貞享3年(1686)岩槻藩4万8千石に転封される。若年寄。元禄9年(1696)領内野田村、瓜田谷村(南埼玉郡白岡町爪田ヶ谷)で狼の害があったため、老中に伺書を提出し、鉄砲で狼を追い払った。翌年但馬出石藩に転封される(新訂寛政重修諸家譜」「郷村高帳類」)。

松平忠輝【まつだいら・ただてる】 1592〜1683 92歳
 辰千代、左近衛権少将。徳川家康の6男。容貌魁偉、常軌を逸する行動が多いことから生涯父に冷遇され、家康の葬式に出ることも許されなかった。慶長4年(1599)深谷藩1万石の藩主となり、同時に長沢松平家を継ぐ。同7年下総佐倉藩5万石に転封。同19年に越後高田藩75万石の藩主となるが、元和2年(1616)突如改易される。理由は大坂の陣での遅参、キリスト教徒の関連、伊達正宗・大久保長安等との幕府転覆計画など諸説ある。配所信濃諏訪にて死去(「徳川諸系図」「長沢家畧系」)。

松平忠敬【まつだいら・ただのり】 1855〜1919 65歳
 篤之助、子爵。出羽米沢藩主上杉斉憲の6男。松平忠誠の養子。忍藩10万石の藩主。藩主就任後すぐに版籍奉還により忍藩知事となる。その後の藩政改革では領内に養豚を奨励するなどしたが、廃藩置県で免官され東京に移る。明治5年(1872)英国に留学、5年後帰国。元家臣の使い込み事件などがあり、一時米沢に戻り中学教師をしたこともある。同28年東京に戻り、あとは悠々自適に暮らした。

松平忠吉【まつだいら・ただよし】 1580〜1607 28歳
 福松、下野守、薩摩守、侍従。徳川家康の4男。2歳で東条松平の跡を継ぎ、駿河沼津城主となる。文禄元年(1592)埼玉郡忍(行田市)に10万石で入城。領内では兵農分離を推進、また利根川沿いの低湿地の開発を促した。。関ヶ原では岳父井伊直政とともに奮戦するが、島津義弘と戦って負傷する。戦後尾張清洲藩52万石の藩主となる(「徳川諸家系譜」「家忠日記」「国史学」)。

松平忠頼【まつだいら・ただより】 1582〜1609 28歳
 右馬允、左馬允。忠吉の次男。桜井松平。従兄弟である家広の跡を継ぎ、松山藩1万石の藩主となる。関ヶ原では尾張にて防備を固める。その年の内に1万5千石を加増されるが、翌年遠江浜松に5万石で転封となる。

松平典則【まつだいら・つねのり】 1836〜1883 48歳
 誠丸、典術。斉典の子。越前松平。川越藩17万石の藩主。相模沿岸の海防を命じられる(「徳川諸家系譜」)。

松平輝綱【まつだいら・てるつな】 1620〜1671 52歳
 主殿、甲斐守。信綱の長男。川越藩7万石の藩主。父と行動を共にし、代理を多く務める。軍学兵術や薬学、地理学を好んで学んだという(「寛政重修諸家譜」)。

松平朝矩【まつだいら・とものり】 1738〜1768 31歳
 久太郎、喜八郎、大和守、侍従。越前松平。播磨姫路藩主松平明矩の子。11歳で遺領を継ぐが、姫路は要地のため幼少の朝矩には不適当とされ、上野前橋15万石に転封される。明和2年(1765)老中となるが、同4年川越に転封となる。前橋城が水難で、居住不可能なまでに破壊されたためである(「徳川諸家系譜」)。

松平直克【まつだいら・なおかつ】 1839〜1897 59歳
 侍従、大和守、少将。筑後久留米藩有馬頼徳の5男。松平直侯の養子。川越藩17万石の藩主。文久3年(1863)政事総裁職に任じられ、横浜鎖港を命じられたが失敗。わずか1ヶ月で罷免された。慶応2年(1866)前橋築城の念願がかない、居城を前橋に移した。廃藩置県後前橋藩知事。

松平直恒【まつだいら・なおつね】 1762〜1810 49歳
 千太郎、大和守、侍従。朝矩の子。越前松平。川越藩15万石の藩主。浅草倉、寛永寺などの防火や東海道筋の川々普請手伝などを行なった(「徳川諸家系譜」)。

松平直温【まつだいら・なおのぶ】 1795〜1816 22歳
 亀三郎、大和守、侍従。直恒の子。越前松平。川越藩15万石の藩主(「徳川諸家系譜」)。

松平直侯【まつだいら・なおよし】 1839〜1861 23歳
 八郎麻呂、侍従、大和守。常陸水戸藩主徳川斉昭の8男。松平典則の養子。川越藩17万石の藩主。内海砲台場警衛を命じられた(「徳川諸家系譜」)。

松平斉典【まつだいら・なりつね】 1797〜1850 54歳
 乙之助、徳之助、大和守、侍従、少将。直恒の3男。越前松平。川越藩15万石の藩主。天保11年(1840)2万石加増。藩御用達商人横田家を士分にし、勘定奉行格に任命して、商業資本による藩財政の立て直しを図ったが、横田家が衰退すると農政改革に着手、荒廃した水田の回復を図った。また相模三浦での海岸防備の役を勤める(「徳川諸家系譜」)。

松平信綱【まつだいら・のぶつな】 1596〜1662 67歳
 長四郎、伊豆守。大河内久綱の次男。叔父の松平正綱の養子となる。徳川家光に小姓として仕え、25歳で500石の知行取になる。同9年御小姓組番頭に就任し300石加増、寛永元年(1624)2千石、同4年1万石となり大名に列せられる。6人衆、御数寄屋方支配、老中となり、同10年忍藩3万石を賜る。忍領は幕府が関東農政のモデルケースとして注目した場所であり、信綱の父久綱が代官として支配したちでもあった。寛永12年忍領一帯に普請組合の結成を命じ、幕府料、藩領、旗本領に関わらず、治水・利水の統一的な管理を行なわせている。寛永14年島原の乱が勃発すると、信綱は上使として島原におもむき、見事乱を終結させる。同16年3万石加増され、川越に転封となる。川越では寛永大火後の川越城の再建拡張と城下町の整備、喜多院の再建、新河岸舟運の開発、野火止用水の開削と武蔵野開発、慶安検地、勧農政策など、川越藩政の確立に大きく寄与した。信綱の死後には1万5千石の新田が出来ていたという。また才知に富み逸話も多く、「知恵伊豆」と称される。大老酒井忠勝は「伊豆守と知恵くらべしようとするはおろか。あれは人間というものではない」と評している(「信綱記」「寛政重修諸家譜」「国史学」)。

松平信輝【まつだいら・のぶてる】 1660〜1725 66歳
 伊豆守。輝綱の4男。川越藩7万石の藩主。和田倉門番、二の丸火の番、内桜田門番、浅草御倉火の番、追手門番を歴任。元禄7年(1694)下総古河に転封となる。信綱以来3代56年の治世で、本知7万石は実質10万石におよんだ(「寛政重修諸家譜」)。

松平松千代【まつだいら・まつちよ】 1594〜1599 6歳
 徳川家康の8男。母は阿茶の方。深谷藩1万石の藩主長沢松平康直の死後跡を継ぐが、わずか6歳で死去。

松平康重【まつだいら・やすしげ】 1568〜1640 73歳
 次郎、左近丞、周防守。松井康親の長男。徳川家康の臣。父康親は家康より松平姓を賜り、康重も家康より一字拝領している。天正18年(1590)の小田原攻めでは先鋒をつとめる。関東入国にあたり、私市城(北埼玉郡騎西町私市)と周辺2万石が与えられる。関ヶ原では遠江掛川城を守る。慶長6年(1601)1万石の加増を受け、常陸笠間藩に移った(「寛政重修諸家譜」)。

松平康載【まつだいら・やすとし】 1854〜?
 錦之進、周防守。信濃松本藩主戸田光庸の6男。松平康英の養子。川越藩8万4百石の藩主。家督相続と同時に版籍奉還を願い出ている。わずか16日の藩主だった(「昭和新修華族家系大成」)。

松平康長 → 戸田康長

松平康直【まつだいら・やすなお】 1569〜1593 25歳
 源七郎。長沢松平。康忠の子。天正18年(1590)の小田原征伐では、岩槻城攻撃隊に加わる。戦後深谷城と1万石を与えられるが、若くして死去(「寛政重修諸家譜」「長沢家畧系」)。

松平康英【まつだいら・やすひで】 1830〜1904 75歳
 石見守、周防守。松井松平。陸奥棚倉藩松平家の分家松井康功の子。同じく分家の松井康済の養子となり、遺領5千石を継ぐ。駿河加番、火事場見廻役、寄合肝煎、講武所頭取、神奈川奉行、外国奉行を勤める。文久元年(1861)外国奉行だった康英は仏・英・蘭・普・露・ポルトガルの6カ国との交渉使節の副使となり渡海する。帰国後2千8百石加増、勘定奉行勝手掛、道中奉行、大目付、江戸南町奉行を勤め、元治元年(1864)本家松平康泰の養子となり、陸奥棚倉藩6万442石の藩主となる。以後、奏者番、寺社奉行、老中を勤め、慶応2年(1866)川越藩8万4百石に転封となる。大政奉還後恭順の意を示すが許されず、2万石没収及び謹慎処分を命じられる。戊辰戦争の際は官軍にひたすら協力を要請、なんとか川越城攻撃を回避している。赦免後の明治2年(1869)信濃松本藩主戸田光庸の6男錦之進を養子とし、自分が隠居することで所領の安全を図った(「昭和新修華族家系大成」)。

松田源吾【まつだ・げんご】 ?〜1852
 義教。葛飾郡佐左衛門村(北葛飾郡杉戸町)の農民の次男。江戸に出て柳剛流流祖岡田奇良に学び松田派を興す。江戸と郷里に道場を構え、門人は1500人ほどであった。

松田十五郎【まつだ・じゅうごろう】 1835〜1914  80歳
 貞好。忍藩士。服部山蔵の子。浅山一伝流、小野派一刀流、鏡新明智流、夢想流柔術を学び忍藩の剣術師範となる。

松田康定【まつだ・やすさだ】 生没年不詳
 筑前守、康光。松田憲秀の手代で三奉行の1人。下小坂(川越市下小坂)、勝呂郷高野村(坂戸市紺屋)で103貫11文を領していた。『小田原所領役帳』の作成奉行をつとめる(「役帳」)。

松野助信【まつの・すけのぶ】 生没年不詳
 岩付太田家家臣。足立郡御倉村(大宮市御蔵)の松野館に居住していた。松野氏は下野宇都宮氏の傍流。

松野資信【まつの・すけのぶ】 生没年不詳
 助正の子。旗本。足立郡御倉に200石を領していた。

松野助正【まつの・すけまさ】 生没年不詳
 助信の子。太田氏房、のち徳川家康に仕える。足立郡御倉領主。

松村源六郎【まつむら・げんろくろう】 1741〜1817  77歳
 牛松、佐左衛門、勝芳。埼玉郡志多見村(加須市志多見)の名主・代官松村政勝の長男。戸賀崎熊太郎に神道無念流を学び、50歳のとき免許皆伝。代官職をつとめる傍ら剣術・俳諧・華道・料理に精通していた。

松村篁雨【まつむら・こうう】 1733〜1809 77歳
 俳人。横田柳几に師事し多数の著述を残した。足立郡上谷村(鴻巣市上谷)の人。

松本忠興【まつもと・ただおき】 生没年不詳
 喜太七。古寺城主(比企郡小川町上古寺)(「青木家家譜」)。

松本文斎【まつもと・ぶんさい】 1815〜1880 66歳
 漢学者。秩父郡大宮郷(秩父市大宮)の生まれ。江戸で足立春英、寺門静軒に学び頭角を表した。帰郷して医業に従事していたが、請われて師静軒死後の両宜塾(妻沼町)で指導した。

真鳥日向守【まとり・ひゅうがのかみ】 生没年不詳
 足立郡に拠った土豪。足立郡真鳥(浦和市西堀)に館を築いた。

真名板五郎二郎【まないた・ごろうじろう】 生没年不詳
 鎌倉時代、埼玉郡真名板(行田市真名板)に拠った土豪。