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遠山綱景【とおやま・つなかげ】 ?〜1564
 丹波守、藤九郎、甲斐守。直景の子。後北条家家臣。江戸城代をつとめる。比企郡野本(東松山市上野本、下野本、美土里町)、入西郡若林(毛呂山町若林)等に1242貫567文を領していた(「役帳」)

遠山正輔【とおやま・まさすけ】 生没年不詳
 後北条家家臣。天正18年(1590)、軍師として松山城に篭もる。

遠山光景【とおやま・みつかげ】 ?〜1587
 右衛門大夫。後北条家家臣。小倉城主(比企郡玉川村田黒)(「新編武蔵風土記稿」)。

戸賀崎胤芳【とがさき・たねよし】 1774〜1818  45歳
 熊太郎。暉芳の子。父を助け埼玉郡上清久(久喜市上清久)の神道無念流道場にて剣術指南を行っていた。

戸賀崎暉芳【とがさき・てるよし】 1744〜1809  66歳
 熊太郎、知道軒。神道無念流の剣客。埼玉郡上清久(久喜市上清久)の農民戸賀崎元右衛門の子。新田義貞の末裔というが不詳。16歳のとき江戸に出て神道無念流を学び、21歳のとき免許皆伝を得る。故郷に道場を開くとともに全国武者修業の旅に出て、相手になるものはほとんどいなかったという。のち江戸麹町に道場を開き門弟3000人を数えた。晩年は故郷上清久に戻り子弟の育成にあたったという。高山彦九郎と親密であった。

戸賀崎芳栄【とがさき・よしひで】 1807〜1865 59歳
 熊太郎、喜道軒。胤芳の子。幼くして父を失ったが、弟子たちにより名剣士に育て上げられる。文政7年郷里上清久に祖父・父を偲ぶ石碑を建立した。その後江戸牛込に道場を開き、水戸藩に召し出され5人扶持を賜り剣術師範となった。文久4年(1864)河西才市の子鹿太郎の仇討を助け、浦和針ケ谷(浦和市針ケ谷)にて仇を討ち取った。

戸田一西【とだ・かずあき】 1542〜1603  62歳
 新二郎、十兵衛、釆女正、政成。氏光の子。徳川家康の臣。1575年三河吉田で武田勢と合戦して戦功を上げ、小牧長久手や1590年の伊豆山中城攻略でも活躍。関東入府の際、高麗郡鯨井(川越市鯨井)に5千石を与えられる。関ヶ原後近江大津3万石に移された。

戸田忠昌【とだ・ただまさ】 1632〜1699  68歳
 伊賀守、侍従、越前守、山城守。忠次の長男。叔父忠能の養子となり、三河田原の遺領1万石を継ぐ。寛文4年(1664)肥後富岡藩2万1千石に転封、同11年奏者番兼寺社奉行。延宝4年(1676)京都所司代となり1万石加増。天和元年(1681)1万石加増とともに老中就任。翌年さらに1万石加増され岩槻藩5万千石に転封となる。岩槻では領内笹山村(蓮田市笹山)に溜井落し堀を造成、のちに戸田山城守忠昌の名を取って「山城堀」と呼ばれる。貞享3年(1686)1万石加増され下総佐倉に転封となった(「新訂寛政重修諸家譜」)。

戸田康長【とだ・やすなが】 1562〜1632  71歳
 虎千代、孫六郎、丹波守。忠重の子。徳川家康の臣。11歳の時松平姓を名乗ることを許される。小牧・長久手の戦いで奮戦。天正18年(1590)の関東入国知行割で幡羅郡東方(深谷市東方)に1万石を賜り、東方藩を興した。関ヶ原では水野忠成とともに美濃大垣城を攻める。翌年上野白井に転封となり、東方藩は廃藩となった(「寛政重修諸家譜」「新編武蔵風土記稿」)。

富島彦左衛門【とみしま・ひこざえもん】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。諸足軽衆の1人。川越小堤(川越市小堤)で29貫525文を領していた(「役帳」)。

富永善左衛門【とみなが・ぜんざえもん】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。江戸衆の1人。入東郡福岡(上福岡市福岡)などで48貫623文を領していた。

戸谷双烏【とや・そうう】 1774〜1849 76歳
 本庄宿の豪商。若くして俳諧を志し、芭蕉百回忌に際して京都東山に「芭蕉堂の記」を建碑、翌年には句集『此まこと』を出版している。双烏以降の本庄は著名俳人も滞在するようになり、俳諧ブームに湧いたという。

鳥居商近【とりい・あきちか】 ?〜1824
 強右衛門。忍藩家老。松平忠堯に仕える。鳥居家は長篠の戦いで磔となった、奥平信昌の家臣鳥居強右衛門を祖とする。