楽屋の柱時計は11時をさし、打ち上げが始まってすでに3時間が経とうとしていた。
 かすみはいまだ盛り上がりつづける楽屋をそっと抜け出し、隣の衣裳部屋へきていた。
 途中からマリアに付き合って飲み始めたお酒がかすみの体をほどよく火照らせ、既にほろ酔い気分にさせていた。
「ふう、久しぶりに飲みすぎたかな……」
 ひんやりとした衣装部屋の空気に身をかざしながら、かすみは部屋の中をぐるっと見渡す。
 数百着にも及ぶ舞台衣装が所狭しと並ぶその中に、ひときわ目立つ衣装がひとつ、かすみの目に飛び込んできた。
 今回の舞台で使用したシンデレラのドレスである。
 しばしの間、黙ってドレスを見つめる。
『かすみさんも、魔法のドレス欲しいんじゃないですか?』
『大神さんの前でもあがらない自分になるために』
 先ほどの由里の言葉がはっきりと思い出される。
(由里ったら、突然あんなこと言い出すなんて……)
 しかし、由里の言うこともあながち間違いとは言えないと、かすみは思っていた。
 そう。確かに自分は大神の前では普段の落ち着きを失ってしまう。
 今朝のことを思い出しながら、かすみは自分がなぜ大神の前では冷静さを失うか考えていた。
 確かに昨夜見た夢のこともあった。だがそうだとしても「落ち着いている」とか「冷静だ」と人から言われているいつもの自分とは、あきらかに違う自分がそこにいたのである。
 思えば、大神を意識し始めたのはいつの頃からだっただろうか。
 1年前に大神が赴任してきた頃は、事務局や売店での仕事を手伝ってもらっているときも、または休憩時間にお茶を飲みながら談笑しているときもそれほど意識することはなかった。
 やがて月日が経ち、大神の優しい人柄、物事に対する真摯な態度に触れ続けるうちに、自然と恋心を抱くようになっていた。
 だが、かすみが思いを深めていくと同時に、花組のメンバーもまた、かすみと同じように大神への思いを募らせていった。
 由里の噂話などもあって、かすみは彼女たちの気持ちには気づいていた。舞台女優として華麗に舞い、戦闘部隊として勇敢に戦い、そして大神と同じ屋根の下で暮らす彼女たちと比べて、自分の入り込む余地などないと思い始めていた。
 しかし、その気持ちに反して、大神への想いは次第に高まっていく。
 自らの抱えるこの気持ちの対立に耐え切れず、胸を痛めることも数度ではなかった。
 そして募りに募った想いはやがて、態度として表面に現れるようになっていた。
 今までに経験したことのないこの気持ち。だからこそ、自分はどうすればいいのかわからないでいるのだ。
 そう逡巡しながらも、かすみの瞳はドレスにくぎ付けになっていた。
 由里の言葉が再び頭をよぎる。
(魔法のドレス……)
 ゆっくりと。かすみは右足を一歩前へ踏み出す。
 シンデレラのドレスに向かって。
(このドレスを着たら、私も変われるかしら……)
 お酒のせいか。それともかすみの心が想いに抗しきれなくなったのか。ゆっくりとドレスに近づいていく。
 そしてドレスを手にすると、自らの着物を脱ぎ、ドレスに袖を通し始める。
 数分の後、姿身に映る自分を見つめるかすみの姿があった。
 夢で見たのと同じ自分がそこにいた。
 だが、それで自分に何か変化がおきたようには感じられなかった。
(やっぱり、ドレス着ただけじゃだめよね……)
 落胆のため息をひとつもらしたその時。
「あれ、かすみ君?」
 扉の開く音とともに、大神の声が衣裳部屋の静寂を破った。
「お、大神さん!?」
 驚き慌てて振り返るかすみ。そこにはまぎれもない大神の姿があった。
 恥ずかしさから上気するかすみ。
「かすみ君、そのドレスは……」
「ご、ごめんなさい! すぐ脱ぎますから!!」
 気が動転しそうになりながらも、着替えるべく影へと移動しようとする。
 だが、大神の声がそれを静止させた。
「いや。いいんだ、かすみ君。そのままの格好で」
「えっ?」
 大神の意外な言葉に驚きの表情を隠せないかすみ。それとともに、次第に落ち着きを取り戻していく。
 大神はまじめな顔つきでかすみに話し掛けてきた。
「もうしばらく、そのままの格好でいてくれないかい?」
「えっ、どうして……?」
「かすみ君のドレス姿を見ておきたくてね」
「でも、これはさくらさんの衣装だし……」
 なおもためらいつづけるかすみに、大神は優しく微笑みながら、
「大丈夫。誰にも言わないから。それに、誕生日ぐらいはそんな格好してもいいんじゃないかな」
「――誕生日?」
「今日はかすみ君の誕生日じゃないか」
 言われてからはっと気づくかすみ。確かに今日、4月14日は自分の誕生日である。
 舞台に立つことの嬉しさと仕事の忙しさから、今の今まですっかり忘れてしまっていたのだ。
「大神さん……覚えていてくれたのですね」
 感激のあまり目頭が熱くなるのがわかる。
 そして、大神の優しさが、かすみの心に染み渡っていった。
 そんなかすみに、ゆっくりと大神が近づいていく。
 近づいていきながら、唐突にまじめな顔つきになって大神は口を開いた。
「かすみ君。実は、君に大事な話があるんだ」
「大事な話……なんでしょう?」 
 その表情を見た途端、おさまっていた胸の鼓動が再び早くなり始めた。
(もしかして、大神さん……)
 胸のうちに淡い期待を抱くかすみ。
 静かに大神を見つめながら、次の言葉を待つ。
 大神もまた、しばしかすみを見つめていたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「実は――今度、海軍に復帰することになったんだ」
「えっ!?」
「しばらく帝劇を離れることになったんだ」
「そんな……」
 突然のことに、かすみは言葉を失ってしまう。
(そんな、大神さんがいなくなるなんて……)
「それはいつまでなんですか? いつになったら帝劇に戻ってくるのですか!?」
 かすみはすがるようにして大神に問いつめる。
「わからない……1年先か、2年先かも」
 しかし、大神はそれだけ言うと、静かに首を横に振った。
 言いようのない哀しさ、寂しさが暴風のようにかすみの胸を襲った。
 頬を伝う涙を拭うこともせず、ただ呆然と立ちつくすかすみ。
 そんなかすみの肩に、大神がやさしく手を置き、
「それでかすみ君、一つお願いがあるんだ」
「…………」
 大神の問いかけにも、心ここにあらずといった今のかすみの耳には届いていないようだった。
「確かに海軍に復帰となれば、俺はいつ帝劇に戻ってくるかはわからない」
 それでもかまわず、大神は話し続ける。
「でも、きっと俺は帝劇に戻ってくる。だから……」
 大神はそこで一旦言葉を区切ると、意を決したように口を開いた。
「だからそれまで、かすみ君に待っていて欲しいんだ。俺がかすみ君を迎えにくるまで」
 その言葉に、かすみははっと顔を上げる。
「迎えにって、もしかして――!!」
「王子様がガラスの靴を持って迎えに来るのをシンデレラが待っていたように――」
 野の花が花びらを一枚一枚開いていくかのように、かすみの表情が明るくなっていく。
『迎えに来る』という大神の言葉の持つ意味。それは間違いなく、かすみが抱いていたものと同じ気持ちを、大神もまた持っていたということだ。
 先程の哀しみに勝る嬉しさがこみ上げてきて、かすみの胸一杯に広がっていった。再び涙腺がゆるみ、涙が瞳を揺らす。
「……私、待ちます。大神さんが迎えに来てくれるまで。だから――」
 かすみは頬が火照るのを感じながら言葉を継いだ。
「その約束の証を、私に示して下さい」
「証ったって……指切りでもすればいいのかい?」
 かすみは静かに首を振った。そして目を閉じると、心持ち唇をうわ向けにする。
「かすみ君……?」
 大神の驚く声が聞こえる。だが、かすみは目をじっと閉じ、そのままの姿勢でいた。
 せっかくだせた勇気――好きな人の前で、自分の本当の気持ちをだせた勇気を、台無しにしたくなかったから。
 閉じた瞼のその向こう側で、大神の近付く気配がした。
 高鳴り続ける胸の鼓動を感じながら、かすみはその時を待った――

 1年に1度の大切な日に起きた奇跡。
 それは、シンデレラのドレスが起こした魔法だったのだろうか。
 それとも――かすみの想いと勇気によって起きたのだから、『奇跡』とは呼べないのかもしれない。
 かすみが踏み出した勇気の第一歩を祝するかのように、中天に輝く満月の淡い光が、澄み通った星空を照らし出していた。

〈夢と現のシンデレラ 了〉