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マリアは羨ましかった。
楽しそうに思い出を語る大神が。
マリアは恨めしかった。
語る思い出を持たない自分が。
物心ついてこの方、記憶に残っているのは辛く厳しい生活に戦場における極度の緊張、そしてそれらにつきまとう深い悲しみだけであった。
マリアとその両親の三人がシベリアに強制移住させられたのは、まだマリアが一歳にも満たない時だった。
日本とロシアの間に起こった戦争は、ロシア人の夫に日本人の妻というマリア一家に突然の悲劇をもたらした。
永久凍土のシベリアでの生活は苛酷を極める。多くの囚人達が病に倒れ、命を失っていく。今日を生きるのに精一杯で、明日に明るい希望なんて持つ余裕はなかったし、また持つことも出来なかった。
収容所での生活、そして日々の強制労働――そういった環境でマリアは九歳までを過ごした。両親の死後、マリアはとある革命グループに参加する。しかしここでもマリアは安息の日々を送ることは出来なかった。そのメンバーの多くが流刑地を逃げ出してきた元囚人であり、憲兵の監視の網をくぐり抜けながらの生活だ。日常的に緊張が走っている。そして、そんなつねにピリピリした大人達は、子供のマリアにかまっている余裕などなかった。
そして、ロシア革命終結後に渡ったニューヨークでも、マリアは安息を得ることは出来なかった。組織に身をおくマリアには常に死の危険がつきまとっていたのである。
このような環境の中、マリアが身につけていったものはいかにして生き延びることが出来るか、という一点であった。常に自分の隣に死が漂っている生活の中で、楽しい思い出などできようはずがなかった。
だから、今自分の目の前で楽しそうに思い出話を語る大神が羨ましく見えるのだ。
かつての――花組を知る以前の自分なら、嫌悪していたかもしれないこの感情も、今のマリアは素直に受け止めることが出来た。
シベリアの流刑地、革命グループ、そしてニューヨークのギャング……。様々な居場所に身を置いてきたマリアだが、ここ帝都東京でようやく本来の自分を取り戻すことが出来たと言えよう。
次第に翳りを見せていくマリアの表情に気付いて、大神は話を中断して語りかける。
「どうしたんだい、マリア?」
「あ……すみません、隊長。少し昔のことを思い出していたもので」
「昔のこと……」
大神はつぶやきながら内心まずいことをしたと思った。
マリアの過去については6月の刹那の件、そして7月のバレンチーノフの一件で大体の事情を知っていたからである。
自分の思い出話に終始していたことで、マリアに辛い思いをさせてしまったと思ったのだ。
「すまない、マリア……」
「隊長が謝ることありません」
自然と口をついで出た大神の言葉に、マリアは以前の微笑を取り戻して応える。
マリアもまた、そんな大神の心を察しているようである。
しばしの静寂が厨房をとりまいた。
「そ、そうだ。マリア、カレーの味付けを見てくれるかい?」
気まずい雰囲気をうち破るように、大神がマリアに促す。
「わかりました。じゃこの小皿に……」
マリアはお玉でカレールーをすくうと、それを少し小皿にとってひとすすりする。
「……どうだい?」
「いいと思います。ただ、もう少しまろやかさを出してはいかがでしょう」
「そうか……じゃどうしたらいいかな?」
「そうですね……牛乳を入れてみたらどうでしょう」
「牛乳か……悪くないかもしれないな。よし、早速やってみよう」
大神は冷蔵庫から牛乳を取り出し、ほんの少し鍋に加える。
「全体では美味しくできていると思います。ただ、アイリスには少し辛さが強いかと思いまして……」
「なるほど……」
「ふふっ、でも本当に隊長はお料理がお上手ですね。今日の味付けは全部隊長がやってくださいましたし」
「前にボルシチを作ったときに、みっちりと教えられたからね」
「ボルシチ……」
「あ――すまない。また昔のこと思い出させちゃったかな……」
「いえ、そんなことは……」
否定しながらも、マリアの表情が次第に沈みがちになる。
「隊長……」
「何だい?」
「何故、人は過去を捨て去ることが出来ないのでしょう?」
「マリア……」
「隊長のように楽しい思い出なら、いつまでも自分の中にしまっておいてもいいでしょう。でも、決して思い出したくない、忘れたいことだってあります。そんな過去は、一生背負っていかなければいけないのでしょうか――」
「そうだな……人は自分の過去を捨てるなんて出来ないのかもしれない」
「…………」
「でも、新しい思い出を作ることはいくらでもできる」
「新しい思い出……」
「そう。いくら哀しい過去を持っていても、それに勝る思い出を作っていけばいいのさ」
大神はマリアの瞳をまっすぐ見据えながら言葉を続ける。
「確かにマリアは今まで辛い思いばかりしてきたかもしれない。でも、今はこうしてこの帝都に生き、花組のみんなと楽しく暮らしているんだ。いくらだって思い出は作れる」
「そうですね……私にとって、この帝都、そして帝劇はまさに新天地でした」
あやめとの出会い、初めて帝劇にやってきた日、初めて舞台に立った日、そして、大神に出会った日――それらは確かに、思い出としてマリアの記憶に残っている。
だが――それでもなお、マリアの心に翳りが残っていた。
今でもたまに見る昔の夢……決して逃れることの出来ない過去。
それはそのまま、今の、未来への不安へと変わっていく。
自分は本当にこのままでいいのだろうか。
自分は本当にこのままでいられるのだろうか。
雨雲のように暗く、重いものがマリアの心に広がっていった。
「…………」
うつむき気味になったマリアのその瞳に、カレーを煮込んでいる鍋が映る。
「…………」
その時、マリアの胸にふたたび、過去の記憶が蘇っていた――