あの花のように


「おっ、着いたぜ、隊長」
 俺より前を走っていたカンナが言った。帝劇から結構走ったというのに、カンナは息一つ乱れていない。
 特に目的もなく、劇場内をぶらぶらしていた俺を、カンナが外に誘い出してくれた。
「こんないい天気の日に劇場に閉じこもってちゃもったいねえぜ、隊長」
 まったくカンナの言う通りだと、走りながら感じた。
 暑からず、寒からず。少々走っても汗ばむほどではない。外で過ごすには絶好の日和だ。
 カンナが誘った場所は帝劇から20分ほどのところにある、こじんまりとした公園だった。公園といってもきちんと整備されているわけではなく、公園一帯に連なる木立の中にベンチが2、3置いてあるだけだった。公園の中に目をやると、歓声を上げて走り回っている子供たちや、ベンチに腰掛けている老夫婦など数人がいるだけだった。
 だが、俺が一番目を奪われたのは――
「どうだい、きれいだろ、隊長」
 そう言ってカンナが示した先には、 満開に咲いた梅の並木が続いていた。
 天を埋め尽くすかのように広がる枝々に、無数の花がその華麗な様を競い合っていた。
 春のそよ風に運ばれた梅の花の香が俺の鼻孔をくすぐる。
「ここかい? カンナが来たかった場所って」
 俺がそう尋ねると、カンナは満面の笑顔で振り向いて言った。
「そうさ。隊長がフランスに行っちまう前に、どうしても一緒に来たかったんだ」
 そう。俺はあと1週間でフランスへ留学に行かねばならない。花組のみんなとも、また離れ離れになってしまう……
 この1年、ともに暮らし、ともに戦ったみんなと別れるのは、身を切られるような思いだ。だが、今までの戦いの中で、俺は幾度も考えさせられた。これからもこの帝都を、そしてみんなを守っていくのに、俺にはまだまだ足らないものがある……。そう思ったからこそ、フランス行きを決意したんだ……
「どうしたんだい、隊長? むずかしい顔しちゃってさ」
 カンナが俺の顔を覗き込んでくる。つい考え込んでしまったようだ。別れが間近に迫っているせいか、ここ最近どうも感傷的になりがちである。
「いや、今までのことを思い出していてね」
 カンナに笑顔でそう答える。カンナもまた笑顔で返した。
「そうだよなぁ。この1年、いろんなことがあったよなぁ……」
 カンナは空を仰ぎ見ながら、感慨深そうにそう言った。俺もつられて空を見上げる。
 一面に広がる薄桃色の幕間から、春のうららかな日差しが照らしこむ。
 俺たちはしばらくその光景を眺めていた。言葉は交わさない。春の風だけが静寂を埋めていた。
 やがて、風に乗って何かの鳴き声が聞こえてきた。一度聞いただけで、それが何の鳴き声なのかがわかる。
「おっ、ウグイスが来たみたいだぜ」
 カンナが声をあげる。確かにこれはウグイスだ。よくよく見ると、ひときわ大きな梅の木の枝にきれいな緑色の羽のウグイスが止まっていた。
「そうか。この梅の花に呼ばれてやってきたんだな」
「梅の花に呼ばれてか……いいこと言うじゃねえか、隊長」
 俺が何気なく言った言葉に、カンナは俺の肩をひとつぽんと叩きながら応えた。
「…………」
 そして、カンナは腕組みをしながら、ウグイスと梅の花をしばらくじっと見詰めていた。
「なあ、隊長……」
 そのままの姿勢で俺に話しかけてくる。
「梅の花って、すごいと思わねえか?」
「え?」
「だってよ……梅の花は、別にウグイスを呼んでいるわけじゃない。ただ、あんな風に綺麗に咲いて待っているだけなのに、ウグイスは毎年、春になったら必ず梅の花のところにやってくるんだぜ」
「…………」
「もし……もし、隊長があのウグイスだったら……梅の花のところに、ちゃんと帰ってこれるかい?」
「えっ、どういう意味だい?」
「……っ、いや、その……なんだ。もしあたいがあの梅の花だったら……隊長はちゃんと帰ってきてくれるかな、って思ってよ……」
「カンナ……」
 照れくさそうに、うつむいて鼻頭を指でかくカンナ。
 俺はそんなカンナの肩を、そっと抱き寄せ――
「たっ、隊長……」
「心配しなくてもいいよ、カンナ。俺はちゃんと戻ってくる……カンナの所に」
「隊長……」
 カンナは苦笑いしながら言った。
「そうだよな……隊長は、絶対帰ってくる。疑ったりしちゃ、いけないよな」
「…………」
「あたい……信じてるぜ。隊長のこと……いつまでも、待ってるからな」
「ああ……」
 俺はそう言って頷いた。カンナも頷いて応える。
「へへっ、でもよ。あたいが梅の花だなんて、絶対に似合わねえよな……」
「そんなことないさ」
「――そうかい? ありがとよ、隊長。お世辞でもうれしいよ」
「お世辞なんかじゃないさ」
 そう。お世辞なんかじゃない。俺の本心からの言葉だ。
 それは……

「おおっ、すげえぜ!」
 公園を吹き抜ける一陣の風が、梅の花びらを宙に舞い上がらせる。
 花びらの渦は、歓声を上げるカンナの周囲をまるで踊るように取り巻いていく。
 そのカンナの姿は、まるで薄透明の羽衣を纏ったかのような――これはまさしく、カンナの優しくて素直な、純白な心そのものだ。
 俺は確信した。こんなに綺麗で、無垢なる花をウグイスが忘れるわけないと。
 そして、俺も――決して忘れはしない。

 きっと帰ってくるよ、カンナ。だからそれまで、綺麗な花を咲かせて、待っていてくれ――

〈あの花のように 了〉