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小泉掃部助【こいずみ・かもんのすけ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。菅谷城代(比企郡嵐山町菅谷)。

河野権兵衛【こうの・ごんべえ】 生没年不詳
 足立郡糠田村(鴻巣市糠田)の人。天明の大飢饉の際に私財200両を施し貧民を救った。その行いを人々は「奇特権兵衛」と呼んだという。代官の上申により苗字帯刀を許された。

高力清長【こうりき・きよなが】 1530〜1600(04)(08)  71(75)(79)歳
 新三、与左衛門、河内守。安長の子。松平広忠、徳川家康の臣。三河時代には三奉行の1人として活躍。姉川・三方ヶ原・本能寺の変を歴戦。天正8年(1580)遠江馬伏塚城、同10年駿河田中城主。同14年には豊臣姓を賜る。家康の関東入国とともに岩槻城2万石と浦和郷1万石を賜る。商業振興、宿駅交通網の整備、領内粕壁(春日部)に新宿を設置と、藩政に力を入れた。没年に関しては@墓石A「寒松稿」B「寛政重修諸家譜」の三説がある(「寛政重修諸家譜」「新訂寛政重修諸家譜」「寒松稿」)。

高力忠房【こうりき・ただふさ】 1584〜1655  72歳
 忠長、左近大夫。正長の子。岩槻藩2万石の藩主。奏者番。関ヶ原時は信濃上田城を攻める。大久保忠隣改易のときに小田原城接収の役目を務め、大坂夏の陣では奈良に待機し焼き討ちを防いだ。元和5年(1619)1万石の加増を受け、遠江浜松に移った(「新訂寛政重修諸家譜」)。

高力正長【こうりき・まさなが】 1558〜1599  42歳
 与次郎、権左衛門、土佐守。清長の子。岩槻藩2万石の藩主。徳川家康の臣。大番頭。三方ヶ原・長篠・長久手の合戦で功績を上げる(「新訂寛政重修諸家譜」)。

小河原政甫【こがわら・まさすけ】 ?〜1850
 近江。政陽の子。川越藩執政、勘定奉行兼任。2300石を知行していた。異国船襲来に備えて相模三浦での防備の任にあたった。

小久保縫殿助【こくぼ・ぬいどののすけ】 生没年不詳
   代山城主(浦和市代山)。岩付太田家家臣。

小熊総七郎【こぐま・そうしちろう】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。岩淵下郷領家(川口市領家のことか)で18貫500文の知行を与えられていた(「武州文書」)。

小倉元英【こくら・もとひで】 ?〜1376
 左中将。児玉郡吉原(児玉郡美里町広木)に居住していた。

小島正重【こじま・まさしげ】 1588〜1668  81歳
 庄右衛門。関東郡代伊奈忠治配下。江戸川開発に従事。葛飾郡吉妻(北葛飾郡庄和町西宝珠花)に小流寺を建立。

小菅大炊助【こすげ・おおいのすけ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。河越衆の1人。入西郡石坂(比企郡鳩山町石坂)で3貫文を領していた(「役帳」)。

小高泰作【こだか・たいさく】 1826〜1907  82歳
 神左衛門、秀通。比企郡牛ヶ谷戸(川島町牛カ谷戸)の里正の家に生まれ、18歳で高麗郡梅原(日高市梅原)の比留間半造の門に入って甲源一刀流を学ぶ。父の死後里正の職を継ぎ、荒川沿いの築堤作業に従事した。この功績により川越藩から頭取格が与えられた。

児玉有行 → 越生有行

児玉家行【こだま・いえゆき】 生没年不詳
 武蔵権守。児玉党の祖。

児玉刑部四郎【こだま・ぎょうぶしろう】 生没年不詳
 児玉党。承久の乱に幕府方として出陣した(「吾妻鏡」)。

児玉重行【こだま・しげゆき】 生没年不詳
 児玉党。忍城主。延徳元年(1489)成田親泰によって城を追われた。

児玉時国【こだま・ときくに】 ?〜1284
 六郎。児玉党。日蓮が佐渡に流される途中、自らの館に日蓮を泊め、請うて説法をうけたという。日蓮の入寂後に玉蓮寺(児玉郡児玉町児玉)を創建した。

児玉南珂【こだま・なんか】 1746〜?
 j。甲斐豊島家の生まれ。のち岩槻藩士児玉親繁の養子となる。向井一郎太に儒学を学ぶ。郡奉行、勝手向取締役。大岡忠喜、忠要、忠烈、忠正に仕える。岩槻藩の財政建て直しに貢献。また、教学振興も行なっている。後世に「岩槻に過ぎたるものが2つある 児玉南珂と時の鐘」と評された。

後藤備前守【ごとう・びぜんのかみ】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。河越衆の1人。河越三十三郷東明寺浄楽寺分(川越市宮元町、御成町、氷川町、志多町など)・鎌倉地方などで194貫829文を領していた。後藤氏は鎌倉代官大道寺氏のもとで小代官を勤めるとともに仏師としても活躍した(「役帳」)。

高麗経澄【こま・つねずみ】 生没年不詳
 入間郡高麗郷(日高市高麗本郷)の部将。室町前期の足利家の内乱(観応の擾乱)において、はじめ足利直義の命により参陣したが、すぐに足利尊氏のもとに寝返った。その後も尊氏にしたがって活躍し、高麗郷の地頭職を安堵された。

小宮山忠孝【こみやま・ただたか】 生没年不詳
 弾正。成田家譜代の臣。戸塚城主(川口市東戸塚)。戸塚城付近に200貫の知行を有していた(「成田家分限帳」)。

小宮山内膳【こみやま・ないぜん】 生没年不詳
 実名不詳。足立郡小谷城(吹上町小谷)城主と伝えられる(「新編武蔵国風土記稿」)

小室元長【こむろ・げんちょう】 1764〜1854 91歳
 比企郡番匠村(都幾川村番匠)の人。医学を志し、蘭方医学の産婦人科医として独立。独自の手術道具を用い、自宅には昼夜を問わず診察を求める人々が訪れたという。門人多数。

小守太郎左衛門【こもり・たろうざえもん】 生没年不詳
 実名不詳。河越衆の1人で狩野氏の被官。吉見郡黒岩(吉見町黒岩)に6貫500文を領していた(「役帳」)

権田直助【ごんだ・なおすけ】 1809〜1887 79歳
 入間郡毛呂本郷(毛呂山町毛呂本郷)の医者の家に生まれ、はじめ漢方を学んだがのちに古医道に転化。さらに皇国医道の探求を志すと共に復古思想に刺激され平田篤胤に入門。国学者、尊王攘夷論者となり百人を越す門人を有した。相楽総三の薩摩浪士隊に「刈田積穂」の偽名で参加、大監察という重職に就き、維新後は岩倉具視の命で関東地方探索を行った。

近藤作蔵【こんどう・さくぞう】 1793〜1825  33歳
 元隆、公盛。江戸の生まれ。父は山崎氏。学問に優れ、忍藩主に招かれ諸氏に教授しするが、病弱のため夭折した。主著に『名臣言行録輯釋』