●塩谷義孝(1560?〜1631?)  [from:武将風雲録]

 下野国主・宇都宮氏。関東八家に数えられる名家故に全国版から登場することが出来た。しかし、次作の戦国群雄伝では下野国ごとカット……4年のブランクを経て武将風雲録では見事復活を遂げたものの、待っていたのは「弱小大名」のレッテルだった。この宇都宮氏苦難の幕開けに付き従い、のちに全く登場することがなくなったのが今回採り上げる塩谷義孝である。
 塩谷氏はれっきとした宇都宮氏の一族である。鎌倉時代の初め、宇都宮頼綱の弟朝業が下野国塩谷庄に入ったのが初めとされているが、実はその前にも塩谷氏は存在していた。源義家の孫頼純が塩谷庄の荘官になったときに塩谷姓を名乗っており、その子孫も源平合戦で活躍している。だが、後世の歴史家はこの塩谷氏を武蔵七党のひとつ児玉党出身の塩谷氏と勘違いしてしまい、下野の塩谷氏は暫らく忘れられた存在となっていた。この時から既にマイナー武将としての資質を持っていたといえよう
 結局源氏姓塩谷氏に宇都宮朝業が養子として入ったというのが真相のようである。その後平和に過ごしてきた塩谷氏だが、ひたひたと押し寄せる戦乱の波に逆らうことは出来ず、一族最大の危機がおとずれた。塩谷義孝と孝信の兄弟が真っ二つに別れて争い始めたのだ。
 事の始まりは弟孝信が大関高増の娘を嫁にしたことから始まった。大関高増は北下野に勢力を誇る那須家城代十二手、つまり宇都宮家を支える12人の支城城主の一人に数えられており、義孝は宇都宮家との関係を良くするために宇都宮広綱の養女を嫁にしたり宇都宮氏の者を養子とするなどゴマすりを繰り返していた。しかし、お互い嫁さん大事のため両者は対立するようになり、天正12年にはお互いの城を攻め合うまでになってしまった。この塩谷氏の内乱に那須・宇都宮両家が介入してきたため下野一国を巻き込む大騒乱となってしまった
 この状態は関ヶ原の時の真田家と似ている。真田家の長兄信幸は東軍の本多忠勝の娘、弟の幸村は西軍の大谷吉継の娘と結婚していたため兄弟で敵対するようになってしまったが、真田家には家名を残すための策略があった。しかし塩谷家はそんなものは全く考えていなかったのか、結局泥沼の抗争へと発展していったのである。
 というのが武将風雲録の武将FILEが参考にした『戦国人名事典』でのお話。しかし、これは『那須記』という江戸時代に書かれた軍記物語が元になっており、史実とはかけ離れたお話だったりするのだ。
 実際に義孝と孝信が争ったのは間違いない。しかしそれは天正12年などではなく、その20年前、永禄7年のお話である。この時に義孝は孝信によって自害に追い込まれているが、義孝の享年は77歳。もし秀吉によって追放されるまで生きていたら103歳になってしまう。天海和尚もびっくりである。
 那須家と宇都宮家の抗争に巻き込まれた塩谷氏の当主は義綱であり、義孝の息子もしくはやしゃごとされる人物である。息子とやしゃごでは随分と開きがあるが、それだけ確かな史料が残されておらず非常に考証が困難であったことがわかる。ともあれ、ゲームに登場する塩谷義孝とは塩谷義綱のことと解釈できるのである<ちなみに↑の生没年は義綱のものである
 さて、いずれにしろ身内の喧嘩ばかりしていた塩谷氏は中央の情勢にまで目をやる余裕がなかった。そんな塩谷氏に忍び寄る豊臣秀吉の影。そして塩谷家に予想だにしなかったとんでもない事態が!!<ガチンコ風に
 この続きは次回、岡本正親の項でっ!!

秋田県史編纂室蔵「塩谷系図」より抜粋

シナリオ所属国身分政治戦闘教養魅力野望忠誠
塩谷義孝1;戦国の動乱下野宇都宮家家臣435854525184
塩谷義孝2;信長包囲網下野宇都宮家家臣475954525184
塩谷孝信2;信長包囲網下野宇都宮家家臣444150465780


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