今回紹介するマイナー武将は垪和氏続なのだよ<なっちゃん風に
実は垪和氏続は覇王伝と天翔記の2作品で登場しているので、このコーナーで採り上げられる資格を有していない。しかし折角電車賃使って図書館行って調べたものを無駄にするのも勿体無いので採用となったのである。こんなこと位で怒る諸兄もいないとは思うが、もし「なぁに自分でルール破ってるんだゴルァ!」って思ったらごめんなさいですm(_ _)m
さて氏続である。彼は小田原北条氏の重臣である。どのくらい重臣かというと、氏続は1128貫675文を知行として宛がわれていたのだが、これは清水康英(829貫700文)大道寺政繁(1212貫357文)遠山綱景(963貫300文)北条氏尭(1168貫757文)等の他の一族・重臣と比べても遜色ないほどなのである。
氏続は幼名を又太郎、長じて伊予守氏続と名乗った。父の名は伊予守としか伝わっていないので、代々伊予守を名乗る家系であったのだろうか。苗字の「垪和」は「塀和」とも書くが「芳賀」や「羽賀」とは書かず、別系統のようだ(たまーに書いてある資料があるが誤記若しくは当て字である)。ちなみに美作国久米郡に「垪和郷」があり、菅原家出身の一族が垪和姓を名乗っているが、この氏続の垪和家と関係あるかどうかは全く解らない。
垪和氏は駿河国駿東郡御厨内(静岡県御殿場市)に拠った土豪らしいので、北条早雲が興国寺城に入って相模に侵攻した時ぐらいに従属したと考えられる。そのまま暫らく御厨にとどまって今川家や葛山氏元などの動きを監視していたらしいのだが、1546年の河越合戦の頃に北条家が駿河から撤収し始めると垪和氏も一族揃って相模へお引越しすることになった。河越合戦といえば上杉勢を破った後、空き城になっていた武蔵松山城に城代として垪和伊予守(一説に垪和刑部少輔)がはいったが太田資正にたった4ヶ月で奪い返されてしまった。
大体ここら辺までが氏続の親父のお話。1557年に氏続は家督と知行を相続するのだが、その後暫らく名前が出てこなくなる。ようやく再登場するのが北条氏が駿東郡を奪回した1569年で、この時に駿河興国寺城主に任じられている。そしてあの武田信玄の攻撃から城を死守しているのである!!
こうして北条家の西の守りには欠かせない武将となった氏続だが、武田信玄が死ぬとまたぱったりと記録が途絶えてしまう。1579年に垪和又太郎が北条氏直より「直」を一字拝領しているが、この又太郎は氏続の息子または一族と見られている。そして1582年6月の神流川での滝川一益との合戦で垪和伊予守親子の戦功が北条氏政によって賞されたのが最後の記録となっている。
こうしてみると氏続は北条家の中で大きな戦力となっていたようである。特に占領直後であり、敵方との最前線となる松山城や興国寺城を任されるなど主家からの信頼も厚い。こうした氏続の功績は江戸時代においても認められており、山鹿素行の『武家事紀』には次のような記述がある。
「芳賀伊預守、氏綱、氏康、氏政にいたるまで、代々武功の勇士也。いつ方の城を責をとされても、先伊預守を入置て、城の守法をとゝのへしめ、後に別人に与へらるゝことくありし勇士也」
己の武功により見事後世に名を残した氏続であったが
400年も経つとすっかり忘れられてしまったのか、信長シリーズでは雑魚武将扱いである。しかし従来より「領土の割に武将の数が少ない」と言われ、特に武功派h数えるほどしかいない後北条家にとって、氏続は充分に救世主たりうるものを持っていると思う。是非今後のシリーズでの復活を願いたいマイナー武将である。
<上段:覇王伝/下段:天翔記>
シナリオ | 所属 | 所在国/城 | 政治 | 戦闘 | 知謀 | 采配 | 野望 | 忠誠
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シナリオ0 | 待機 | 相模伊豆/玉縄城 | 51 | 58 | 42 | 59 | 45 | --
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シナリオ1 | 北条 | 武蔵/河越城 | 51 | 58 | 42 | 59 | 45 | 70
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シナリオ2 | 北条 | 武蔵/河越城 | 51 | 60 | 42 | 59 | 45 | 70
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