●国富貞次(1546〜1632)  [from:天翔記]

 今回は天翔記より国富貞次を取りあげてみたい。
 貞次は備前宇喜多家の家臣である。源右衛門ともいい、上道郡比丘尼山城主(岡山市国富)であった。ただし、先祖が誰か、いつ頃から彼の地にいたのか、そしていつ頃宇喜多家に臣従したのかなどははっきりとしていない。
 さてこの貞次、宇喜多家中では「無双の勇士」として名を知られていた。そして数多くの武功の中で、特筆すべきなのは八浜合戦での奮戦であろう。
 天正9(1581)年、織田家と共に備中攻めを画策していた宇喜多家は、この動きを事前に察知した毛利輝元により先に攻められてしまう。輝元は叔父の穂井田元清を大将にした軍勢を宇喜多領の児島地方に進出させ、敵領の中に城を築かせた。これに対して宇喜多家では宇喜多基家を大将にした軍勢を向かわせる。両軍対峙する事数ヶ月、足軽同士の小競り合いからいよいよ戦端が開かれた。
 戦いは柳畑という海浜で行われ、はじめは宇喜多勢の優勢であったが、まもなく総大将の基家が流れ弾に当たって討死(一説によると味方の流れ弾だったとか)すると戦況は一変。宇喜多勢は総崩れとなり次々と退却を開始し始めた。この時殿軍として奮戦したのが貞次である。この時は貞次の他にも6人の奮戦が伝えられており、後世「八浜七本槍」と呼ばれた。このうち、貞次は二番槍の手柄とされている。
 他にも、朝鮮出兵の時に明軍の漢南人の将軍との一騎打ちの話も伝えられている。が、この時は取っ組み合いになったが、相手の方が重くて押しつぶされそうになったところを、配下の若輩者に助けられたという情けないエピソードもある。
 以上のように(?)武功の士である貞次だが、↓の能力表を見ると鉄砲兵科がBと高い。これは「秀家時代には800石を与えられ鉄砲頭を務めた」と『天翔記武将FILE』に書かれているためだが、彼の事績を辿っていくと個人の武勇には確かに優れていたようだが、鉄砲を使用して戦功を上げたことは一度もない。さらに慶長5年(1600)の『浮田家分限帳』によれば、国富源右衛門は800石を与えられているものの、所属は「御鉄砲衆」ではなく「浮田河内守組」となっている。しかし前掲の『武将FILE』が参考とした『戦国大名家臣団事典』には「鉄砲頭として38人を預かる」となっており、どうもはっきりとしない。これは一体どういうことなのだろうか。
 これらの記述を頭に入れて再び『浮田家分限帳』を調べてみると、「御鉄砲衆」に「国富弥右衛門」なる人物がいた。この弥右衛門は38人の鉄砲足軽を率いているが、知行は1520石と倍近い。またこの『分限帳』には、慶長5年春までに宇喜多家を出奔した人物には朱で○が付けられているのだが、この弥右衛門にはその印がない(源右衛門には印がある)。よって源右衛門貞次とは別人であろう。
 このことから見ると、『天翔記』に登場する国富貞次は決して鉄砲の才に優れていたわけではないようだ。しかしこれは能力を決めた人物や『武将FILE』の執筆者、ましてや『家臣団事典』の編者たちの責任と決めつける訳にもいかない。なにせ安永3年(1774)に書かれた『備前軍記』(岡山藩士:土肥経平著)において既に間違えられているのだから……

 最後に、コーエーの『信長の野望天翔記事典』より以下の一文を紹介して締めとしたい。

「……作家とプロデューサーの見解の相違もあるだろうが、たったひとりの武将の能力値を決めるだけでも、数々の史書をひも解き、その経歴を追う。さらにゲームバランスも考慮に入れる。ゲームを作るって、本当に大変なんだよ。」
登場年政才/得戦才/得智才/得兵科特性
足軽/騎馬/鉄砲/水軍
技能魅力野望義理
156048/C146/A42/CC/D/B/E(無し)52598
シナリオ1シナリオ2シナリオ3シナリオ4
浦上家/砥石城[待機]浦上家/砥石城[足軽頭]宇喜多家/砥石城宇喜多家/砥石城


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