天海


 え〜およそ4ヶ月ぶりの歴史研究であります(^_^;;) 更新送れて大変申し訳ありませんでした。
 なお、今回から文章を文語体から口語体に改めました。こちらのほうが格段に書きやすいので(^^;;) ご了承くださいませ。

 さて、第3回目のテーマは「天海」です。TVアニメの放映、そしてDC版サクラ1の発売と、天海にスポットを当てるにはまさに絶好の機会ですね(笑)<TV版ではなんかまだ出てきてませんが(^_^;;
 まずは『サクラ』世界の天海はどのような設定なのかを見てみましょう。

天海[1536〜1643?]CV宝亀克寿
 蘆名天海、慈眼法師、黒衣宰相などの呼び名もある歴史上の人物。
 かつての黒衣宰相、徳川家のブレーン、天海。黒之巣会の首領。
 1919年、葵叉丹の反魂の術によって復活する。
 齢400を越える老人。
 西洋文明によって汚された帝都を一度破壊し、かつての江戸、徳川幕府、幕藩体制を復活させるのが目的である。(後略)

 以上は『サクラ大戦 原画&設定資料集』(ソフトバンク刊)の「帝都大辞典」からの抜粋です。が……これだけでは実際よくわからないですね(^^;;
 そこで、まずはここに書かれている言葉を順に検証してみましょう。

(1)生没年に関して
 天海の生年に関しては昔からさまざまな議論がなされてきました。大正5(1916)年刊の『大僧正天海』(南翠須藤光暉著)によると、天海の生年は1509年から1554年までの12説に分かれているそうです。しかし現在では、天文5(1536)年正月元日生とするのが定説になっています。これは元和元(1615)年に、天海が時の後陽成天皇[ごようぜいてんのう]より、古来より80歳の功臣に下賜される「鳩杖」を賜ったという記録から逆算して出されたものだそうです。ちなみに、天海と同年同月同日に豊臣秀吉も生まれています。

(2)呼び名について
 数々の異称を持つ天海ですが、ここではその異称がどのような意味を持っているのかを見てみましょう。

・蘆名天海
 この「蘆名[あしな]」は、戦国時代、陸奥国会津地方(現在の福島県)に勢力を伸ばしていた豪族蘆名氏のことです。つまり、天海はこの蘆名氏の一族ということになります。ただしこの蘆名一族説にも諸説があり、母親はいずれも蘆名氏(蘆名盛高の娘)で共通しているのですが、父親に関しては「蘆名盛氏(会津黒川城主)」「船木景光(会津高田の住人)」「足利義晴(室町幕府12代将軍)」「足利高基(関東古河公方)」など様々な説があります。
 この「足利氏出自説」はいかにもうさんくさそうな説ではありますが(^^;;)、現在日光にある天海の墓に建つ鳥居には天海の家紋として「二引紋[にびきもん]」が彫られており、この説の信憑性を高めているとされています。

・慈眼法師
 慈眼大師ともいい、入寂後に与えられた勅諡号です。勅諡号とは朝廷より与えられる特別な号で、天海以前には弘法大師空海、伝教大師最澄、慈覚大師円仁、智証大師円珍の4人のみに与えられています。

・黒衣宰相
 これは諡号などと違いあだ名です。同僚の崇伝[すうでん]とともに徳川家康、ひいては徳川幕府の影の部分で暗躍したためにこのように呼ばれたのでしょう。別に黒衣を着ていたわけではありません(^^;;) 大河ドラマ(『葵−徳川三代』)じゃずっと赤い派手な法衣ですしね(^_^;;

●天海ってこんな人
 では、実際史実の天海はどんな人物だったのでしょうか。若い頃の天海から順に追っていきましょう。

(1)随風時代(1536〜1590)
 上述の1536年生説では、生地は陸奥国大沼郡高田(現在の福島県大沼郡会津高田町)となっていて、幼名は兵太郎といういかにも武家らしい名前が付けられています。
 この出生のころの伝説を2つほど紹介。一つは母親が未だ子が授からないことを嘆き、月に向かって祈ったところ、奇花を呑む夢を見て天海を身籠もったという話です。この手の話は英雄出生譚としてはポピュラーなもので、秀吉の母も懐中に日輪、つまり太陽が入り込む夢を見て秀吉を身籠もったと伝えられています。
 2つ目は無事天海が生まれた直後のこと。両親が産湯のために桶に水を汲んだ際、大きな鯉が飛び込んできたので、両親は「食べてしまおう」と思ったが、新たな命が生まれ出たばかりのこと、無益な殺生はやめておこうと逃がしてあげた。ところが祝の席に呼ばれた学者がそれを聞いて、非常に残念がったのである。いわく「この子は天下の主となるべきだったのに、おまえさんたちが鯉を逃がしたので果報は消えた。坊さんにするほかはあるまい」と。これによって兵太郎君は僧侶としての道を歩むことになったということですが……なんでこんな話が出来たのかちょっとわかりませんね(^^;;) 僧侶になることが運命づけられていたというなら、生まれた時に手に観音像を握っていたとかいきなり起きあがって法華経を暗唱し始めたとかの方がよっぽどそれらしいのに<そうか?(^_^;;
 それはそれとして、この学者の言った通り、兵太郎は11歳の時近所の龍興寺[りゅうこうじ]で剃髪し、名を随風[ずいふう]と改めます。その後はもう日本各地を回って仏法を修行し、知識見識を深めていきました。どういった所を回ったのかは省略するとして(^^;;)、ここでは若かりしころのエピソードを一つ。
 戦国時代の名勝負として名高い、川中島での武田信玄と上杉謙信の一騎打ち。この現場を随風が目撃していたというのです。この頃の随風は武田家にお世話になっていて、合戦が始まるというので「御坊の身に何かあっては一大事」と、信玄から帰国を命じられます。しかし随風くん「こんな大戦を見逃してはもったいない」と戦場近くの山に登って勝負を観戦します。そこで件の一騎打ちを目の辺りにしたんですが、その夜、信玄の元を訪れた天海は「古今に例を見ないあっぱれな一騎打ちでございました」と讃辞を述べたところ、信玄は「あれは儂ではない。儂の影武者だ」と否定したあと、「御坊はこれから諸国を回ることになろうが、儂と謙信が一騎打ちしたなどと諸侯には言わないでくだされ」と口止めをされたそうです……
 この話は江戸時代に入ってから、川中島合戦の記録をまとめる時に話されたもので、18世紀前半に書かれた川中島合戦図屏風(和歌山県立博物館所蔵)には「信玄謙信一騎打ちを眺める天海」の図がしっかりと描かれていたりします。
 しかし! この話、実は真っ赤な嘘でして(^_^;;) 天海が語ったと記されている史料自体真実性がないもので、天海がこの時期武田家にいたというのもあり得ない話なのです(^_^;;) でもまあ、面白い話ではあるので紹介しておきました。

(2)家康随伴時代(1590〜1616)
 天正18(1590)年、武蔵国入間郡仙波(現在の埼玉県川越市)の星野山無量寿寺[せいやさんむりょうじゅじ]で修行していた随風は、27世豪海僧正より「天海」の名を与えられ、同時に豪海の跡を継いで28世の法座に就きます。この年は小田原北条氏が滅亡し、代わりに徳川家康が武蔵野の支配者として江戸に入府してきたので、天海も江戸城へお祝いにおもむき、家康と対面したと伝えられています。しかし、この時はお目見え程度のもので、家康に付き従うようになるのはもう少し後のことです。
 翌天正19年、天海の実家筋に当たる蘆名盛重(佐竹義重の次男で蘆名盛隆の養子)が、伊達政宗に会津を追われた後に豊臣秀吉から与えられた常陸国江戸崎(茨城県江戸崎町)の領地内の名刹不動院を再興した際に天海をここに迎えています。天海はここで雨乞いの儀式を行い、見事大雨を降らせたと言います。
 その後、天海は下野国長沼(栃木県真岡市)の宗光寺の住職となっていましたが、慶長13(1608)年、徳川家康に請われて比叡山延暦寺の東塔南光坊に移り、叡山最高職探題となります。これは前年に起こった比叡山の大衆争論の確執の解決後、「この様なことが起こるのは叡山に大善智識がいないからだ」ということで施薬院宗伯[せやくいんそうはく]に適任者はいないかと諮問したところ「天海僧正こそ緇林(しりん;仏教界)の上に秀で、近代の能化(仏菩薩)です」と答えたので、早速天海を叡山に登らしめたためです。このエピソードから、すでに天海の名が仏教界(天台宗)全体に知れ渡っていたことが窺えます。
 この時から、家康の天海に対する信頼は絶大なものになっていきます。天海の知識深い法問を聞いた後、家康が「天海僧正は人中の仏なり。惜しむらくは相識ることの遅かりつるを」と嘆いたというのもこの頃です。慶長16年には天海は正僧正に任ぜられ、翌年無量寿寺が東叡山喜多院と名を改められ関東天台宗の本山となります。

(3)黒衣宰相時代(1616〜1643)
 元和2(1616)年4月17日、徳川家康は75歳の生涯を閉じます。遺体はただちに久能山(静岡県静岡市)に移され、京都の神竜院梵舜[しんりゅういんぼんしゅん]が吉田流唯一神道の儀式にのっとって葬儀が行われました。しかし、この葬儀の終了後、天海が異議を唱えました。
「この葬儀は大御所(家康)の遺言と違う。山王一実神道[さんのういちじつしんとう]に基づいてやり直すべきだ」と。
 これには家臣一同驚きました。家康の遺言を聞いたのは天海と金地院崇伝[こんちいんすうでん]、陪臣本多正純[ほんだまさずみ]らでしたが、山王一実神道なんて聞いたことなかったからです。
 さらに、家康に与える神号に関しても、崇伝は唯一神道に乗っ取って「明神」号を与えるべしと言うのに対し、天海は山王一実神道にのっとり「権現」号とすることと反論し、お互い一歩も譲らない大激論となりました。
 困り果てた新将軍秀忠は天海に問いただします。「なぜ権現が良く、明神がいけないのか。儂にはわからぬ」と。それを聞いて天海はこう答えました。
「明神はいけませぬ。豊国大明神をご覧あれ」
 豊国大明神[とよくにだいみょうじん]とは、豊臣秀吉の死後与えられた神号であり、言うまでもなく豊臣家を滅ぼしたのは徳川家です。そんな不吉な神号を与えるわけにはいかない、と天海は言っているのです。
 この鶴の一声により、家康は「東照大権現」として日光をはじめとする全国の東照宮に祀られることとなったのです。さらにこの年、朝廷から大僧正の位を賜り、僧侶として本朝最高の地位に登りつめたのです。そして以後、天海は幕府の、いや日本の宗教界をリードするべく様々な政策を行い、社寺の造営を行っていきます。その中でもっとも有名なものは、上野寛永寺の建立でしょう。
 寛永2(1625)年、伊勢津藩主藤堂家の屋敷地に建てられた東叡山寛永寺は、直接の動機は「年取った天海が川越喜多院から江戸へ来るのが困難になったため、江戸城に近しいところに住居を造りたい」ということですが、その実は江戸城の鬼門守護のためであり、それは東叡山寛永寺という名前からも窺えます。「東叡山」とは東にある比叡山の意ですし、建立の年号から名前をとったのは、延暦年間に建てられた延暦寺を模倣したものです。すなわち、寛永寺は京都における比叡山延暦寺と同じ役割を持っているのです。この他にも江戸五色不動(詳しくは「ポケットサクラ」を参照・笑)の建立など、江戸の社寺・宗教統制に力を注いでいきました。これはある意味、江戸の霊的防衛策とも言えるでしょう。
 さらに天海は、江戸を離れた北の地、日光の開発にも着手しています。日光を開山したのは奈良〜平安時代に生きた勝道[しょうどう]上人(735〜817)で、男体山に登り修行をして輪王寺や二荒山神社を創建した人物です。その後空海や源頼朝などの崇敬を集めた日光ですが、次第に荒廃し修験場としての価値を失っていきました。その日光を再興したのが天海なのです。
 天海は家康生前より輪王寺の再建など日光の復興に力を入れており、家康没後東照宮を日光に移すにあたってはその指揮をつとめ、見事日光を徳川家守護の霊地としてしまったのです。つまり天海は現在の日光の基礎を創りあげた人物であり、観光地日光は天海のおかげだということですね(笑)
 さて、これら様々なことを行ってきた天海にも、いよいよ入寂の時が訪れます。寛永20(1643)年7月14日、にわかに病に倒れた天海はそのまま病床にふせっていましたが、10月1日の夜に「われ帰寂の期は明日に迫りぬ」とつぶやくと将軍以下弟子達に遺言をしたため、翌日正午には身を清め、衣服を改めて静かに瞑想を続け、文殊菩薩の来迎を感得してから弟子達に最後の別れを告げて示寂しました。時に天海108歳のことです。遺体は日光東照宮、家康神廟の隣の大黒山に埋葬されて慈眼堂と名付けられました。また天海の死を悼んだ朝廷より慶安元(1648)年に慈眼大師と諡号されました。

●天海あれこれ
 前章では天海の一生をつらつらと述べてきましたが、まさかこんな長くなるとは思いませんでした(^^;;) だてに長生きしてませんね(違)
 さてこの章では、前章では紹介しきれなかった天海に関するあーんなことやこーんなことを紹介していきます。

◆何でこんなに長生きなのか
 今でこそ長寿大国として知られる日本ですが、江戸時代は今のように皆長生きだったわけではありませんでした。「人間五十年」と言うように、大体平均年齢は50歳前後でした。その中で108歳という長寿を誇った天海の長生きの秘訣は、一体何だったのでしょうか。
 天海が生前詠んだ歌に、こんなものがあります。

 気は長く 勤めは堅く 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ

 大体意味は取れると思いますが、簡単に訳してみると「短気をおこさず勤勉勤労にはげみ、性欲におぼれず、暴飲暴食をしないで心を広くもつ(ことが長生きの秘訣である)」ということです。まあこれはよく言われるようなことですよね。昔の健康書、養生書の類には必ず書いてあるような内容です(^^;;

 おもしろいのは次の歌です。

 長命は 粗食正直 日湯陀羅尼[だらに] をりをりご下風 あそばさるべし

「長生きしたいのならば、栄養価の低い食事と心に患いのない正直とを守り、毎日風呂に入り、お経を読み、ときどきは誰に気兼ねすることなくおならをせよ」という、非常に具体的かつ剽げた内容となっています。
 また天海は中国の小説・戯曲が大好きで、現在「天海蔵」として残されている旧蔵書には『水滸伝』や『西廂記』、はては『金瓶梅詞話』などという、僧侶が読むにはふさわしくない(^^;;)ものまであるそうです。このように教義に縛られることなく、堅苦しい生き方をしなかったことも長生きの秘訣だったのかもしれません。 
 次に食事面を見てみますと、天海は大豆(特に納豆)と枸杞[くこ]を好物としていたそうです。枸杞とはナス科の落葉低木で、北海道を除く日本各地の野原や河岸に自生しています。夏に淡紫色の花を咲かせ、紅色の果実をつけます。葉は煎じて茶にしたり、ご飯に混ぜたりして食し、果実は酒にします。漢方でも強壮剤として用いられているので健康食の一つとして認知されていたのでしょう。ちなみに日光にある天海墓所(慈眼堂)の賽銭箱には生の大豆がぎっしりとつまっているとか。また天海の故郷福島県会津高田町には枸杞の実が入った「天海大僧正」なるクッキーが売られているそうです(笑)

◆ライバル・崇伝
 晩年になって数々のブレーンに恵まれた徳川家康。天海もその一人ですが、他に崇伝という僧侶も側近として仕えていました。
 室町幕府の臣・一色家の出身である崇伝は5歳の時に京都南禅寺に入り、1605年には金地院に居を移し、南禅寺と鎌倉建長寺の住職を兼ねます。家康には1608年頃召し出され、寺社や外交関係の文書の作成や、各種法令の作成をつとめました。しかし、崇伝の事績でもっとも有名なのは「方広寺鐘銘事件」でしょう。
 豊臣家が造営した方広寺の鐘に「国家安康」という一文が彫られているが、これは「家康」の字を割って呪詛したものだ、というとんでもないいちゃもんをつけて、豊臣家との開戦のきっかけを作ったのです。このことから有名な大坂冬・夏の陣が起こり、豊臣家は滅亡してしまいます。
 こういった相手を挑発させて滅亡・改易に陥らせる所業は崇伝の得意技であり、これにより多くの有力大名が滅亡していきました。このことから崇伝は「大慾山気根院僣上寺悪国師」と陰口を言われるようになります。このように崇伝の評判が悪くなる一方で、崇伝によって取りつぶされたり地位を剥奪された者達を救っていったのが天海なのです。このように天海の評判が上がるに伴って崇伝の評判はどんどん落ちていきますが、実はこれははじめから仕組まれていたことで、天海が「善玉」、崇伝が「悪玉」を演じることで、幕府による大名・宗教統制をスムーズに行うことを目的としていたのです。
 そんな名(?)コンビの二人ですが、前章で述べました家康神号の一件で激しく対立。これに破れた崇伝は以後姿を消していくのです。

◆天海=光秀?
 織田信長を本能寺に急襲し自害せしめた後、山崎にて羽柴(豊臣)秀吉との一戦に敗れ、小栗栖の山中で土民により殺害された――明智光秀の最後は一般にこのように伝えられています。しかし、実は光秀は生き残り、その後天海として家康に仕えて自分を滅ぼした秀吉(豊臣家)潰しに荷担したという説があるのです。
 根拠としては1:両者とも前半生が不詳である。2:光秀は若い頃全国の寺を廻って学問を修めた形跡がある。などが挙げられますが……個人的な見解を言えば、やはりこの説はまことしやかなデマではないかと思います(^^;;
 どの辺りからでた説からはわかりませんが(伊賀あたりかも)、前述の根拠の1は天海の前半生が判明しつつあること、2は光秀が巡ったのは禅寺であり、天台宗の天海とは一致しないこと――とどちらの論も崩れつつあり、やはり両者は別人であると言わざるを得なくなってきています。
 ただし、この説は好事家や歴史作家たちの格好のネタであることは確かで、この説を題材とした小説の類も多く出回っています。

●なぜ天海なのか?
 最後に、『サクラ』世界に何故天海が登場したのかを、筆者なりに解釈してみようと思います。
 あ、最初に断っておきますが、この考察には制作者側の都合というものは一切考慮に入れておりません(笑)

 さて、まず天海に関する設定史料を見てみましょう。
 天海の名が初めて登場するのは慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いです。この時天海は徳川方として降魔を率いて参陣した、とあります。つまり、この時既に天海は降魔の存在を知り、また操る術を知っていたことになります<操るというより召還するだけだったかもしれませんが。
 もっとも、前々章で述べたとおり、史実では天海が家康に仕え始めたのは1608年となっているのでこの設定は少し矛盾していますが……とにかく、天海は降魔に関するある程度の知識を持っていたことになります。
 この関ヶ原で覇権を手にした徳川家康は江戸幕府を開くわけですが、その後の(『サクラ』世界の)天海の活躍は家康の孫である3代家光の時代からやや具体的に表記され始めます。それは1638年の島原の乱終結時、一揆軍の拠点原城にて天海が何やら妖しげな施術を行っている所から始まり、暗殺未遂事件までつづきます。この辺りは小説『サクラ大戦』に詳しいですのでそちらを参照して下さい。
 ……どうでもいいんですが、この小説版の徳川家光ってむちゃくちゃあやしいですよね(^^;;) イメージ的には隆慶一郎氏の描く徳川秀忠像とかぶるんですが(^_^;;
 文章中に家光が父秀忠を暗殺した、みたいな事が書かれていますが、家光はどうも父を軽視していた節があるらしく、家光が幼少の頃持っていたお守り袋のなかに「二世将軍」「二世権現」と書いた紙切れを入れていたとのことです<この紙切れは現存しています。
 これはあきらかに秀忠を無視したものですが、さてその感情が暗殺するほどのものに発展したかどうか……
 少し横道にそれましたが、1643年、史実では天海入寂のこの年に、天海は暗殺されかけますがからくも死を免れ、以後行方をくらまします。以上のように『サクラ』世界では、天海は生前よりかなり呪術色の強い人物であったようです。でなければ降魔を操ったり、徳川秀忠を呪詛で殺害したりなんて出来る訳ないですから<しかし史実でも天海が名だたる大名を呪殺した、っていう説があるらしいですが(^_^;
 では次に、何故葵叉丹は天海を蘇らせたのか、について考えてみましょう。
 このことに関しては小説『サクラ大戦』にヒントとなるようなものがあります。
 まずその1。『巻の一』、島原での天海の台詞「今の汝には力がない。汝を江戸へ連れて行く。もはや意識は徳川の御代が続く限り目覚めまい。汝は江戸の霊的な護りの一部となるのだ……悪魔の王よ」
 その2。『巻の二』での天海と家光の会話。「我が日の本とこの江戸を、悪しき南蛮人どもから護るため、この者を使います。やがて、我が身朽ち果てるとき、この者の魂を我が御霊にて覆い、それをもってこの江戸の霊的防衛を完成させまする」 
 以上2つの文章から推測できることは、天海は江戸の霊的防衛を完璧なものとするために、島原で悪魔王(サタン)の霊力を手に入れる。だが単体では不完全であったため、自らの魂を使い江戸の地にあった形で組み込んだ……といった感じでしょうか。
 しかし、天海は叉丹の反魂の術により蘇ってしまう……つまり天海の魂による封印が解かれ、今まで押さえつけられ、江戸の霊的防衛の一環となっていたサタンが解放された――というのはちょっと考えすぎでしょうか?(^^;;
 天海を蘇らせたのが山崎か、はたまた叉丹なのかでまた違ってくると思いますが……。それに叉丹or山崎がこの事実を知っていたかどうかも問題ですよね。知っていてやったのか、それとも知らずに封印を解いてしまったのか、はたまた無意識下にあるサタンの意志がそうさせたのか――個人的には最後の説が面白そうではありますが(笑)
 こう考えますと、黒之巣会の首領にまつりあげるかどうかはさておくとしても、天海は蘇るべくして蘇った、といった感じがしますね。それが天海自身にとって良かったのか悪かったのかまでは判断できかねますが(^_^;;;

 さあ、長々とお送りしてきました「サクラ歴史研究・天海」ここまで長い間お読み下さってありがとうございました<雑誌の休刊記事みたい(^^;;
 今回は長いだけで殆どまとまりがありませんが、それだけ「天海」が底知れない人物であったということでしょうか。今回自分で調べていても「一体どうなんだーっ!」とわからなくなることもしばしばでしたし(^_^;;
 次回は予定していた「長刀と神崎家」をすっ飛ばして(爆)、「二剣二刀」について考察してみたいと思います。お楽しみに(^^)



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