二剣二刀


 現在(2000年8月)放映中のTVアニメ、そしてOVA『轟華絢爛』5巻など最近のメディアによってようやく謎のヴェールを開き始めた「降魔戦争」。対降魔部隊、太古の呪法など様々な謎の設定が織り込まれているこの「降魔戦争」ですが、その中でも本編『2』によって初めて明らかになった「二剣二刀の儀」と呼ばれる儀式は「破邪の血統」以外でも降魔を封じ、倒すことの出来る数少ない手段として、物語でも重要なイベントとなりました。
 ここでは、この儀式で使われた「二剣二刀」を、最近刀剣マニアになりつつある(^^;;;)筆者の視点から、イラストや設定資料のラフ画などを使って検証してみようと思います。

●霊剣荒鷹【れいけん・あらたか】 所有者:真宮寺龍馬/真宮寺一馬/真宮寺さくら
 裏御三家の一つ・真宮寺家に代々伝わる家宝。魔を退ける力があり、「破邪の血統」に属する者以外は佩くことは許されないものです。また刀自らが持ち主を選ぶと言われ、「霊剣荒鷹は手にするものにあらず。進むべき道定めし者におのずと委ねられるものなり」という言葉通り、新たな主人となる人物を選ぶ(試す)こともあるようです。
 なお、噂では荒鷹と対になる剣が存在するそうですが、詳細は不明です。

☆形状と歴史
 仙台藩士として存続してきた真宮寺家。そのためか、佩刀たる荒鷹は江戸時代の標準的な打刀の形状をしています。
 豪華な装飾の施された柄と朱塗りの鞘が特徴の荒鷹は、設定画などの人物比から割り出した刀身の長さは68〜70cmで、これまた江戸時代の打刀の標準の長さ(2尺3寸)になっています。造り込みも一般的な鎬造[しのぎづくり]ですね。
 材質等は不明ですが、TV版15話の荒鷹修繕の場面にて「荒鷹神社の御神体から削り取った隕鉄を使って」云々とあることから、隕石を使って造られた流星剣とも考えられます。<参考『雲竜奔馬』(笑)
 ですが、実際隕鉄で日本刀を鍛えるのは非常に困難なのだそうです。

☆刀銘
「霊剣荒鷹」は「霊験あらたか」からきている刀銘です。「霊験」は本来「れいげん」と読み、「人の祈りに対して神仏が現わす不思議な働き」という意味であり、「あらたか」は漢字で「灼(か)」と書き、「効き目が著しいこと」を意味します。つまり「霊験灼か」とは「神仏の力がよく効くこと」「願を掛ければすぐかなえてくださること」という意味なのです。
 ちなみに「荒鷹」とは「新鷹」の別称で、「鷹狩に使うために、初秋に捕えたばかりの若鷹」のことなのだそうです。

●光刀無形【こうとう・むけい】 所有者:山崎真之介(葵叉丹)/鬼王(真宮寺一馬)
 帝国陸軍対降魔部隊の隊員、山崎真之介少佐の佩刀。強い霊力を持ち、所持者に希望と野望・野心を達成する強い力を与えると言われています。山崎少佐は降魔戦争にてこの無形とともに行方不明となりますが、葵叉丹として姿を現した際にも所持しており、太正14年4月、叉丹(山崎)の死と共に黒鬼会の鬼王の手に渡ります。
 太正15年の武蔵内部での戦闘により、鬼王(真宮寺一馬)から大神一郎に託され、「二剣二刀の儀」に使用されます。

☆形状と歴史
 柄の先端にある飾り紐が特徴的な無形は、藍色の鞘に足金物[あしがなもの]のある太刀の形式になっています。刀身は殆ど反りがないのですが、棟区[むねまち]にごく近いところで少し反っているため、一般的な京反りではなく腰反りになっています。
 この「腰反りの太刀」は、平安時代に発生し使用された「毛抜形太刀[けぬきがたたち]」の特徴とほぼ同じです。文献には「野剣[のだち]」と記されているように、毛抜形太刀は平安時代の公家が戦場にて用いた一般的な武器であり、直刀から彎刀へ移行する段階の形状と言われています。つまり、現在の日本刀の原型とも言えるのがこの「毛抜形太刀」なのです。
 平安時代こそ実戦で使われたこの毛抜形太刀ですが、天皇行幸の供となる武官の正式佩刀でもあったため、太刀が戦場の主流となった中世以降、江戸時代まで儀礼用として使われていました。

☆刀銘
「光刀無形」は「荒唐無稽」からきています。「荒唐」の「荒」は「しまりが無い」、「唐」は「根拠のない」の意味であり、あわせて「この世の中でそんなばかな事が有るはずはないということが分かりきっている様子」という意味になります。また「稽」も根拠という意味であり、「無稽」もまた「根拠のない」という意味になります。つまり「荒唐無稽」は「荒唐」の強調表現となります。

●神刀滅却【しんとう・めっきゃく】 所有者:米田一基
 帝国華撃団総司令、米田一基中将の佩刀。強い霊力を持ち、所持者に人を統率し正しい方向へと導く力を授けると言い伝えられています。米田は18歳の時、この滅却を持って山岡鉄舟創設の抜刀隊に入隊します。自ら滅却を振るって戦功をたてたこともあったことでしょうし、降魔戦争においても、米田と滅却は奮迅の働きを見せました。
 太正14年5月、銃弾に倒れた米田は、翌々月に滅却を大神一郎に託します。大神は武蔵内部の「二剣二刀の儀」において左手にこの神刀を構え、見事儀式を成功させます。

☆形状と歴史
 細身の直刀というこの滅却は、いわゆる「日本刀」と呼ばれる物とは違います。反りの全くない刀身に、足金物のついた黒塗りの鞘というのは、奈良時代の実戦用の大刀であった「黒作大刀[こくさくたち]」に酷似しています。柄の真ん中の部分が少しくぼんでいるのも一致しています。
 滅却は霊剣にふさわしく宝玉が付いていたりしますが、黒作大刀は装飾品など一切付いていない、とても質素なものでした。まさしく実戦の為だけに造られた刀剣です。
 なお、この反りの全くない直刀は刺突には有効ですが、非常に折れやすい為斬撃には適していません。となると、江戸や明治の剣術にはあまり向いていなかったと思うのですが……

☆刀銘
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」――神刀滅却の元となったこの文句は、戦国時代に甲斐武田家に使えた快川[かいせん]和尚(?−1582)の台詞と伝えられています。武田家滅亡時に、住職をつとめていた甲斐恵林寺[えりんじ]が織田信長によって焼き討ちにあい、撤退を拒絶した快川は周囲が火を包まれるなか「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と叫び、焼死したと言います。意味は「どんな火の熱さでも、精神集中によって無いものと思うことが出来れば、苦しさを感じなくなるものだ」という、読んで字の如くの意味です(^^;;

●神剣白羽鳥【しんけん・しらはとり】 所有者:藤枝あやめ/藤枝かえで
「藤の家系」として、裏御三家と共に魔を狩る血統である藤枝家に代々伝わる妖刀で、太正期には対降魔部隊隊員(のちに帝撃副指令)藤枝あやめの、その死後は妹のかえでの佩刀となりました。強い霊力を持ち、所持者に目指すべき道を指し示し、自己鍛錬を助ける力があるといわれています。あやめはこの白羽鳥を持って諸外国を廻り、帝国華撃団・花組の隊員達をスカウトしたのです。 
 太正15年、武蔵内部にて行われた「二剣二刀の儀」では、真宮寺さくらが霊剣荒鷹と共に構えました。

☆形状と歴史
 二剣二刀の四振りのなかでもっとも設定資料の少ない白羽鳥。名の通りの白鞘に赤紐の巻かれた柄、二剣二刀に共通した柄頭の宝玉が特徴で、刀身が中央部で湾曲した、典型的な打刀といえるでしょう。
 さて、今までさんざん触れてきた「太刀」と「打刀」について、ここで少し詳しく解説しましょう。両者ともに刀身に反りのある彎刀であり、刀身の長さが2尺(60cm)以上の片刃の刀を指すのですが、両者の違いはその装備の仕方にあります。
 まず打刀は、時代劇などに見られるように腰帯に刃を上向きにして差します。これに対して太刀の方は、鞘に付いている足金物という金具に緒(輪状の吊し紐)を2つつけて、これに腰帯を通すことで腰にぶら下げるのです(これを「[]く」と言います)。この時、刃は打刀の逆で下を向いています。これが太刀と打刀の決定的な違いなのです。
 最初に登場したのは太刀の方で、平安時代から鎌倉時代にかけて登場しました。なぜこのような装着法がとられたかというと、帯に吊していることで馬に乗っている時に邪魔にならずにすむからです。ただし、騎乗の際はいいですが地上での素早い移動にはかえって邪魔になり、これが打刀に取って代わられる原因の一つとなります。
 一方の打刀は、鎌倉時代に登場した長さ36cmほどの「刺刀[さすが]」という短刀が原型と言われています。この刺刀は騎馬武者に付き従う徒士[かち]が補助武器として用いたものでしたが、南北朝以後段々と長い物になり、火縄銃の登場による集団密集戦が主流となる戦国時代には、太刀に取って代わりました。打刀は刃を上に向けて携帯しているため、一挙動で抜刀し、斬りつけることが出来ますが、太刀は刃が下を向いているために、一度抜刀した後に構え直さなくてはいけません。このため、抜刀の速さが命である居合術が発達した戦国時代以降は、太刀より打刀の方が一般化していきました。
 ちなみに、霊子甲冑の大神機とさくら機が装備しているのはどちらも太刀です。これは、常に抜刀した状態であることを前提として設計されているからだと推測できます。

☆刀銘
「神剣白羽鳥」のもととなった「真剣白刃取り」とは、本来は合気道における「太刀取り」の第六の形の技を指します。これはよく言われるような、袈裟懸けに斬りつけられた刀を両手のひらで挟んで受け止める、というものではなく、斬撃をよけてから右手で刀の柄、左手で刃の峰の部分を押さえて奪い取るというものです<図解説明が出来ないのでわかりづらいと思いますが(^^;;
 大藤流合気道の家元たる藤枝家に伝わるのにふさわしい刀銘と言えるでしょう。 

●まとめと考察
 以上、二剣二刀について見てきましたが、それぞれの形状から成立年代を推測してみると、次のようになります。

〜奈良時代平安時代鎌倉時代〜江戸時代
神刀滅却光刀無形神剣白羽鳥霊剣荒鷹

こうしてみると、米田の神刀滅却がもっとも古いものだというのがわかります。反対にもっとも新しいものがいつ頃の時代なのかは断定できませんが、霊剣荒鷹は刀身の反りが若干浅いため、慶長以後の新刀に分類できるのではないかと思います。以上の仮説から、二剣二刀の成立時期は江戸時代と比較的新しい時代に推定できるのではないでしょうか。

●おまけ・日本の妖刀あれこれ
 二剣二刀のように、妖術のからんだ不可思議な力を持つ刀剣は、実際の歴史上にもいく振りか登場します。ここでは有名なものをいくつか取り上げてみましょう。

☆天叢雲剣/草薙剣【あめのむらくものつるぎ/くさなぎのつるぎ】 所有者:スサノオノミコト/日本武尊[ヤマトタケルノミコト]など
 記紀神話に登場する武具のなかでもっとも有名なものの1つでしょう。天照大神[アマテラスオオミカミ]の弟であるスサノオノミコトが出雲にて退治したヤマタノオロチのしっぽから出てきたのが、この天叢雲剣です。その後天照大神に献上されたこの剣は、子孫である天皇家に代々伝わっていきました。12代景行天皇の皇子、日本武尊が東国征伐に向かう際、現在の静岡県にある日本平で敵の不意打ちに遭って火攻めにされますが、その時この剣で草を薙ぎ払って脱出したことから、以後草薙剣と名を変えて、三種の神器のひとつとなりました。この剣は1185年の壇ノ浦の合戦で瀬戸内海の海底深くに沈みますが、以降突如として復活し、現在は愛知県の熱田神宮の御神体として大切に祀られています。

☆十柄剣/布都御魂剣【とつかのつるぎ/ふつのみたまのつるぎ】 所有者:イザナギノミコト/スサノオノミコト/神武天皇
 記紀神話に登場する剣で、はじめイザナギノミコトの佩剣として登場し、息子のスサノオノミコトに譲られます。スサノオはこの剣でヤマタノオロチを退治し、天叢雲剣を手に入れます。のちに日向から東征におもむく途中の神武天皇の手に授けられ、天神の意志を象徴する「正義の剣」として重要な役割を果たしました。
 また、この剣は建御雷神[たけみかづちのかみ]の神格化されたものと言われています。建御雷神はイザナギノミコトが息子カグツチノカミの首を十柄剣で切り落としたとき、その血から生まれた神様で、大国主命[おおくにぬしのみこと]に国譲りを強要させる重要な使者の役目を務めました。また、この神様は茨城の鹿島神宮の祭神で、軍神・剣神として信仰されています。

☆鬼切・蜘蛛切【おにきり・くもきり】 所有者:源満仲[みなもとのみつなか]渡辺綱[わたなべのつな]
 もとは髭切・膝切という名前だったこの2刀は、多田源氏の源満仲が天下の守りのために造らせたもので、のちに源頼光[みなもとのらいこう]四天王の一人・渡辺綱の手に渡ります。綱は主人頼光らと協力して、髭切で京都羅生門に棲む茨木童子という鬼の片腕を切り落とし、膝切で妖怪土蜘蛛を斬りました。以後、このふた振りの刀は鬼切・蜘蛛切と呼ばれるようになったのです。
 鬼切の方は少なくとも戦国時代までは存在していたようですが、蜘蛛切はそうそうに歴史から消え去ったと伝えられています。

☆童子切安綱【どうじきりやすつな】 所有者:源頼光/足利家/織田信長/豊臣秀吉/徳川家康
 平安時代、伯耆国(鳥取県)の刀工安綱作の太刀で、頼光が酒呑童子[しゅてんどうじ]の首を切るのに使用しました。室町時代には「天下五名剣」に数えられた安綱は、その後も武家の棟梁の家系に綿々と受け継がれ、現在は東京国立博物館に保存されています。

☆鬼丸【おにまる】 所有者:北条時政/足利家/織田信長/豊臣秀吉/徳川家康/明治天皇
 奥州の三ノ真国という刀鍛冶が、3年間潔斎して鍛えたという名刀で、鎌倉幕府初代執権の北条時政の佩刀になりました。
 ある時、時政が毎晩夢で小鬼に悩まされて、ついに病気で倒れてしまうという事件がありました。この時、自ら動いて鬼を退治したのがこの鬼丸です。以後日本の統治者の手を転々としますが、明冶時代になると明治天皇が召しだし、軍刀(サーベル)に鍛え直して佩刀にしたと言われています。

☆雷切【らいきり】 所有者:立花道雪[たちばなどうせつ]
 はじめ千鳥と呼ばれたこの刀は、戦国時代、豊後大友家に仕えた名将・立花道雪の佩刀です。「雷切」の由来は、道雪が若い頃、近くの木に落ちた雷神(雷)をこの刀で斬ったことによります。このため道雪は半身不随になりますが(よく死ななかったものです)、戦場へは兵士に担がせた板きれに乗って采配をとり、果敢に突撃したと言います。

☆村正【むらまさ】 所有者:いろいろ
 今まで紹介した刀剣はなんかしらの霊的な力を持った(霊的なモノを斬った)ものでしたが、この村正は違います。一般に「妖刀村正」と呼ばれているため、霊剣の類かと思われがちですが、実はそんなことはないのです。
 まず、村正というのはあるひと振りの刀を指す名前ではなく、室町時代、伊勢国桑名(三重県桑名市)に住んでいた刀工の名前で<それも一人ではなく三代にわたってました、その刀工が造った刀すべてが「村正」と呼ばれているのです。見た目よりも切れ味を重視した村正には優れた刀剣が多く、初代村正が鍛えた「妙法村正」は特に傑作として知られています。
 では何故、この村正は妖刀と呼ばれるようになったのでしょうか? 村正が妖刀として忌み嫌われるようになったのは江戸時代に入ってからなのですが、これは徳川家が「村正は祟りを為す妖刀である」として破棄を命じたからなのです。
 家康の祖父・清康と父・広忠は共に家臣に殺されていますが、その凶器として使われたのが「村正」でした。また家康の息子・信康が切腹に使用したのも「村正」ですし、家康自身「村正」の刀で2度ほど怪我をしています。非常に臆病な性格だった家康はこれらを不吉なものと決めつけ、全国に
村正禁止令を出したのです。
 しかし。先に述べたとおり、村正は伊勢桑名という、徳川家の本拠地である三河(愛知県東部)にごく近い場所で生産されたものです。戦国時代ですから切れ味の良い刀を好んで使用するのは当然のことで、徳川家の武士達もそのほとんどが村正の刀を使用していました。周りがみんな村正の刀なわけですから、殺人などに使われるのも当然村正なわけです。つまりたんなる確率の問題なのですね(^^;;
 この迷信は時代を経るにつれてどんどん信じ込まれていき、西郷隆盛なども徳川幕府を倒すまで村正の短刀を肌身離さず持っていたそうです。

 以上、おまけの部分がやたらと長くなってしまいましたが(笑)、「二剣二刀」の考察はこれにて終了したいと思います。次回は予定通りなら「長刀と神崎家」についてです。



 [『サクラ歴史研究』トップページに戻る]