<や> (登録人数:21人)八木橋大膳【やぎはし・だいぜん】 生没年不詳
岩付太田家家臣。足立郡深作(大宮市深作)を領していた。安井政章【やすい・まさあき】 1787〜1853 67歳
与左衛門、珍平。渡辺玄郭の三男で安井久道の養子となる。川越藩郡奉行として200石。川島43村の治水工事に取り組み、わずか90日間で完成させる。のちに川越藩前橋取締。保岡嶺南【やすおか・れいなん】 1803〜1868 66歳
元吉。川越藩医保岡常星の子。長野豊山に儒学を学び、川越藩校の儒官となる。藩の命により頼山陽の『日本外史』川越版を校刻した。安松金右衛門【やすまつ・きんえもん】 1611〜1686 76歳
吉実。播磨の人。川越藩主松平信綱に仕える。藩主信綱の命により、野火止用水を開削した。柳沢吉保【やなぎさわ・よしやす】 1658〜1714 57歳
十三郎、弥太郎、出羽守、侍従、美濃守。初め保明と名乗る。旗本で勘定頭柳沢安忠の子。5代将軍綱吉に仕える。小納戸役をしばらく勤めるが、その間に530石から830石、1030石、2030石と加増され、元禄元年(1688)1万2千30石となり大名に列せられ、同時に側用人に就任した。同3年2万石、同5年3万石、同7年1万石ずつ加増され、計7万2千30石となり川越藩に移り、同時に老中に就任する。藩内では三富新田の開発が有名。同11年には松平姓および綱吉の「吉」の字が与えられ、松平吉保と改名、同15年には11万2千30石の大大名となる。宝永元年(1704)甲斐甲府藩に転封となる(「寛政重修諸家譜」)。矢那瀬大学【やなせ・だいがく】 生没年不詳
実名不詳。北条氏邦の臣。天正18年(1590)には鉢形城の支城虎ヶ岡城(児玉郡美里町白石)をわずか100名で守っていたが、真田昌幸に攻められ落城。大学は城下で帰農し、姓を野原に改めた。山内豊前守【やまうち・ぶぜんのかみ】 生没年不詳
足立郡に拠った土豪。中釘(大宮市中釘)に陣屋を築いた。山口家継【やまぐち・いえつぐ】 生没年不詳
小七郎。村山頼家の子。平安末期、入間郡山口(所沢市山口)に移住し、山口氏の祖となった(「山口氏系図」)。山口高清【やまぐち・たかきよ】 生没年不詳
平内左衛門。高実の子。室町前期の人物。父とともに鎌倉公方足利氏満に反抗したが敗れ、討死した(「山口氏系図」)。山口高実【やまぐち・たかざね】 生没年不詳
三河守。山口城主(所沢市山口)。家継の子孫。室町前期の人物。鎌倉公方足利氏満に反抗したが敗れ、討死した(「山口氏系図」)。山口高忠【やまぐち・たかただ】 生没年不詳
小太郎。高清の孫。室町初期から中期の人。山口根小屋城(所沢市勝楽寺)を築いた(「山口氏系図」)。山口平之進【やまぐち・へいのしん】 生没年不詳
寿庵。浪人医師でキリシタン。慶長年間渡瀬村(神川村肥土)に来住し善明寺を建立するが、キリシタンであることが発覚して親子三人処刑され、寺も取り壊された。山口平六【やまぐち・へいろく】 生没年不詳
実名不詳。後北条家家臣。他国衆の1人。入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していた(「役帳」)。山崎弥三郎【やまざき・やさぶろう】 生没年不詳
実名不詳。後北条家家臣。天正10年(1582)の神流川合戦にて戦功を挙げ、秩父郡野上(長瀞町本野上、中野上)にて21貫350文を与えられた(「山崎文書」)山崎若狭守【やまざき・わかさのかみ】 生没年不詳
実名不詳。後北条家家臣。松山城主上田朝直に属した。1572年普請奉行となって羽尾城(比企郡滑川町羽尾一区)を築き、1575年より城主となった。秀吉の関東侵攻時は同城に籠もり、前田利家軍と激戦を繰り広げたのちに落城(「新編武蔵風土記稿」)。山下治部少輔【やました・じぶしょうゆ】 生没年不詳
実名不詳。後北条家家臣。江戸衆の1人。高麗郡大谷沢(日高市大谷沢、下大谷沢)に19貫400文を領していた(「役帳」)山田伊賀守【やまだ・いがのかみ】 生没年不詳
実名不詳。後北条家家臣。天正18年(1590)豊臣軍が大挙関東に攻め寄せてきた時、松山城代として奮戦。落城後は徳川家康に仕え、300石を有した。山田直安【やまだ・なおやす】 ?〜1600
直義の子。青鳥城主(東松山市石橋)。松山城主上田朝直に仕える。後北条氏滅亡後は徳川家康に仕えて300石を領した。山中右馬允【やまなか・うまのすけ】 生没年不詳
実名不詳。甲斐武田家家臣。秩父郡栃本(秩父郡大滝村大滝字栃本)の関所に配置された。山中孫七郎【やまなか・まごしちろう】 生没年不詳
実名不詳。後北条家家臣。河越衆の1人。山中頼次の一族。川越三十三郷伊佐沼などで434貫537文を領していた。山中頼次【やまなか・よりつぐ】 生没年不詳
内匠助。後北条家家臣。川越衆の1人。川越寺井、的場(川越市寺井、的場、的場北)等に315貫740文領していた(「役帳」)