<は>  (登録人数:13人)

初鹿野昌次【はじかの・まさつぐ】 ?〜1671
 伝右衛門。信吉の子、昌久の孫。足立郡土呂(大宮市土呂)の領主。

初鹿野昌久【はじまの・まさひさ】 生没年不詳
 伝右衛門。武田信玄・勝頼に仕えていたが、武田家滅亡後は徳川家康に仕える。家康の関東入国の際に足立郡土呂(大宮市土呂)などに7百石を領し、土呂の地に陣屋を築いた。

畠山重忠【はたけやま・しげただ】 1164〜1205 42歳
 重能の子。源頼朝に仕え、数々の武功を立てる。文治3年(1187)部下の不正により所領を没収され、囚人として監禁されたが、自らはあずかり知らぬことであったとはいえ、部下の所行を恥じて7日間の断食を行なった。これを聞いた頼朝は直ちに重忠の非を許した。その後も本領の菅谷館(比企郡嵐山町菅谷)で謹慎していたが、デマにより謀反の疑いをかけられる。この時は結城朝光の弁護により疑いは晴れたが、実際の重忠は清廉潔白な性格であったため、決して謀反を起こすような人物ではなかったという。元久2年(1205)北条時政に謀られて相模二俣川(神奈川県横浜市)で戦死した。

畠山重保【はたけやま・しげやす】 ?〜1205
 重忠の子。元久2年(1205)北条時政に謀殺された。

畠山重能【はたけやま・しげよし】 生没年不詳
 秩父重弘の子。大里郡畠山(大里郡川本町畠山)の地に居をかまえ、畠山姓を名乗った。

秦貞八【はた・さだはち】 1780〜1845 66歳
 三河の生まれ。服部栗斎および頼春水に儒学を学ぶ。岡部藩士となり安倍信古に儒学を教授した。また藩校就将館を再興、子弟の教育に努めた。

畑時能【はた・ときよし】 ?〜1336
 六郎左衛門。新田義貞の家臣。金久保城主(児玉郡上里町金久保)。「関東に敵無し」といわれるほどの武勇を誇った。越前鷹巣城にて戦死。

畑彦十郎【はた・ひこじゅうろう】 生没年不詳
 実名不祥。後北条家家臣。永禄4年(1561)河越城篭城の功を賞されている(「新編武蔵風土記稿」)。

鳩谷重元【はとがい・しげもと】 生没年不詳
 兵衛尉。足立郡鳩谷(鳩ヶ谷市)に拠った土豪だったが、何某との訴訟に敗訴したため所領を奪い取られてしまった。

塙保己一【はなわ・ほきいち】 1746〜1821 76歳
 本姓は荻野氏。児玉郡保木野村(児玉郡児玉町保木野)に生まれる。5歳の時失明。15歳の頃に「太平記」40巻を暗記するなど明晰ぶりを発揮、単身江戸に出て雨富検校の門下生となった。以後、その才能をさらに発揮、世に出回っている書物を収集、編集して後世に残そうと「群書類従」670巻を執筆。また和学講談所を設けて国史講義と史料編纂を行なった。保己一の死後、「群書類従」の続編1150巻が刊行された。

早川正紀【はやかわ・まさのり】 1739〜?
 八郎左衛門。井上河内家の家臣和田市右衛門の次男で、旗本早川家に養子に入った。100俵5人扶持で勘定方に任ぜられる。その後関東諸国の河川修理で功績を挙げ、出羽尾花沢5万石、美作久世7万石、備中笠岡の代官職を経て久喜の代官となる。地元の民衆の要望により、享和3年(1803)郷学校遷善館を開校した。寛政の三代官の一人。

原胤信【はら・たねのぶ】 1587〜1623 37歳
 吉丸、主水。下総印旛郡白井城主原胤義の長男。徳川家康の臣。キリシタン。御小姓、鉄砲組頭。知行千5百石。慶長5年(1600)大坂で受洗、ジョアンと称した。同17年の「キリシタン追放令」で逐電、岩槻に潜伏する。3年後捕縛され、額に十字の烙印、両手の拇指、両足の腿筋を切られて追放される。その後江戸に出て布教活動をするが元和9年(1623)再び捕えられ、火刑に処された。

榛沢成清【はんざわ・しげきよ】 ?〜1205
 六郎。榛沢郡榛沢(大里郡岡部町後榛沢)に館を構えた。畠山重忠に従い戦功を立てたが、主君と共に北条氏によって誅された。