<さ>  (登録人数:14人)

西郷右京亮【さいごう・うきょうのすけ】 生没年不詳
 実名不詳。後北条家御馬廻衆の一人。松山正直(比企郡川島町正直)等に81貫を領していた。(「役帳」)

斎藤定盛【さいとう・さだもり】 生没年不詳
 摂津守。北条氏邦の臣。もとは上杉憲政に属していた。鉢形城の支城金窪(児玉郡上里町金久保)城主。

斎藤実盛【さいとう・さねもり】 ?〜1183
 実直の子。幡羅郡長井(大里郡妻沼町)の武士。はじめ源為義、義朝に仕え、保元・平治の乱で活躍したが、のち平宗盛に仕え、木曾義仲との戦いで戦死した。

斎藤重範【さいとう・しげのり】 生没年不詳
 六郎左衛門尉。南北朝時代の人物。中城主(比企郡小川町大塚)。

斎藤光透【さいとう・みつすけ】 ?〜1582
 定盛の子。後北条家家臣。金窪城主(児玉郡上里町金久保)。天正10年(1582)の神流川の戦いで金窪城は落城、焼失。光透は城と運命を共にした。

佐枝信宗【さえだ・のぶむね】 生没年不詳
 岩付太田氏の臣。秀吉の小田原征伐の際、城主太田氏房にかわり岩槻城を守った(「北条記」)。

道祖土図書助【さえど・ずしょのすけ】 生没年不詳
 土佐守。岩槻太田氏、のちに後北条家家臣。1567年に三尾谷(川島町三尾谷宿)、戸森(川島町戸守)両郷の代官職を北条氏康に安堵された。道祖土氏は元は八林郷(川島町上八ツ林・下八ツ林)の在地領主である(「道祖土系図」)

酒井重忠【さかい・しげただ】 1549〜1617  69歳
 与四郎、河内守。酒井正親の次男。雅楽頭系酒井氏。徳川家康の臣。永禄12年(1569)の遠江掛川の戦い、姉川の戦いに従軍。三河西尾城主。家康の関東入国によって川越1万石を賜る。同時に嫡子忠世が5千石、弟忠利が3千石を川越に賜った。朝鮮出兵によって主君家康が肥前名護屋に赴いた際、江戸の留守居役を勤める。関ヶ原の直後弟忠利とともに大阪城守衛の命をうける。慶長6年(1601)3万3千石に加増され、上野厩橋に転封となる。藩政としては川越の連雀商人達に新宿の設置許可を与えている(「寛政重修諸家譜」)。

酒井忠勝【さかい・ただかつ】 1587〜1662  76歳
 讃岐守、侍従、近衛少将。忠利の子。慶長19年(1614)下総に3千石を賜った後、元和8年(1622)深谷藩1万石、寛永元年(1624)2万石加増及び老中就任、同3年忍領2万石を加増、同4年父忠利の遺領をついで計8万石となり、川越城に移った。同9年さらに2万石加増、同11年には若狭国及び越前国敦賀郡11万3千500石の小浜藩主となった。同15年には大老となり、幕閣の中心となる。また領内においては、深谷時代に21ヵ条の定書をだし、農政に勤めた。川越でも治水・開墾に努め、小農自立を推進、また藩内の寺社の復興・修築にも力を入れた。一方で儒者林羅山・鵞峯に儒学を学んだり、古老の戦事体験をもとに「関ヶ原始末記」を編集して4代将軍家綱に献上したりと、文治も推し進めていた。また非常に時刻に厳格で、江戸城に登城する時間がいつも正確なため、それで時刻が判断できたという逸話もある。川越城内にも太鼓櫓を設けて時を知らせたが、のちには、現在もその面影を伝える「時の鐘」を創設した(「寛政重修諸家譜」「酒井空印言行録」)。

酒井忠利【さかい・ただとし】 1559〜1627  69歳
 備後守。酒井正親の3男。重忠の弟。天正18年(1590)川越在紺屋村(坂戸市紺屋)で3千石を賜る。関ヶ原では徳川秀忠に従い信濃上田城を攻め、戦後兄重忠と共に大津城を守る。翌年7千石加増され駿河田中藩主となる。慶長14年(1609)1万石加増され川越藩2万石の藩主となる。幕府内では大留守居役を勤め、藩内では慶長17年から3年かけて川越喜多院を造営。その後1万7千石加増される。領地は入間・高麗・比企3郡にあった(「寛政重修諸家譜」)。

境野越前守【さかいや・えちぜんのかみ】 生没年不詳
 実名不詳。後北条家家臣。他国衆の1人。高麗郡女影(日高市女影)で30貫を領していた(「役帳」)

佐々木氏綱【ささき・うじつな】 生没年不詳
 金田則綱の子孫。菖蒲城主(南埼玉郡菖蒲町新堀)。

佐藤市郎【さとう・いちろう】 ?〜1868
 忍藩士。大坪流馬術の達人。下野六道ケ原の合戦で斥候に出るが敵に囲まれ戦死した。

猿尾種直【さるお・たねなお】 生没年不詳
 太郎。鎌倉時代の人物。中城主(比企郡小川町大塚)。