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上杉顕定【うえすぎ・あきさだ】 1454〜1510  57歳
 四郎、民部大輔、右馬頭。上杉房定の次男。関東管領。山内上杉氏。古河公方足利成氏と対立を深め、成氏と組んだ家宰長尾景春が反乱を起こす。その後扇谷上杉定正と抗争を続けるが、越後出兵中長尾為景に敗れ戦死。

上杉顕実【うえすぎ・あきざね】 ?〜1515
 四郎。山内上杉氏。古河公方足利成氏の子。上杉顕定の養嗣子。鉢形城主(大里郡寄居町鉢形)。同じ顕定の養子憲房と争い、憲房の家宰長尾景長に鉢形城を攻略され、下総古河城に落ち延びた。

上杉顕房【うえすぎ・あきふさ】 1435〜1455  21歳
 弾正少弼、修理太夫、長源院。持朝の子。扇谷上杉4代目。上杉房顕とともに古河公方と分倍河原で戦ったが敗れ、入間郡夜瀬(入間市)で自害した。

上杉氏憲【うえすぎ・うじのり】 ?〜1637
 三郎、氏盛。深谷上杉氏。憲盛の子。深谷城主(深谷市本住町)。後北条家臣。北条氏に降伏後は北条氏邦に属し神流川合戦で活躍。秀吉の関東征伐の際相模小田原城に立てこもるが、篭城中に居城深谷城は重臣秋元長朝が開城、降伏してしまった。戦後江南町に土着し、小久保姓に改めた。

上杉定正【うえすぎ・さだまさ】 1443〜1494  52歳
 修理大夫。扇谷上杉氏。持朝の三男。甥上杉政実の遺臣に擁立されて以後、家宰太田道灌の助けもあり扇谷上杉氏を発展させる。しかし、山内上杉顕定の策略によって道灌を殺害してからは振るわず、荒川を渡河中に落馬し、それがもとで死んだ。

上杉朝興【うえすぎ・ともおき】 1488〜1537  50歳
 五郎、修理大夫。朝寧の子。扇谷上杉氏。江戸城主。永正15年(1518)扇谷上杉氏当主上杉朝良が没した後、その子藤王丸の名代となるが、天文元年(1532)これを殺害、扇谷上杉氏当主となる。しかし家老太田氏の謀反にあったり、北条氏との14回の合戦に1度も勝つことが出来なかった等と勢力を伸ばすことは叶わなかった。

上杉朝定【うえすぎ・ともさだ】 1525〜1546  22歳
 五郎、修理大夫。朝興の子。扇谷上杉氏。河越城主。父の死により13歳で家督相続。その年小田原の北条氏綱が武蔵に侵攻、朝定は三ツ木(鶴ヶ島市三ツ木)で敗北し松山城に逃れた。天文14年(1545)古河公方足利氏と組んで川越城を攻めるが城は落ちず、翌年援軍に駆けつけた北条氏康の軍勢に蹴散らされ、朝定は敗死した。世に言う河越夜戦である。

上杉朝成【うえすぎ・ともなり】 生没年不詳
 朝興の子。扇谷上杉氏。天文6年(1537)北条氏綱が河越にせまると若い当主朝定にかわり出陣する。しかし北条軍に敗れ、朝成は捕らえられた。

上杉朝房【うえすぎ・ともふさ】 生没年不詳
 犬懸上杉憲藤の長男。室町幕府に反抗した平一揆、宇都宮一揆を制圧した。さらに建徳元年(1370)大里郡本田(川本町本田)で新田方の残党と戦い、これを敗走させた。

上杉朝宗【うえすぎ・ともむね】 1337〜1414  78歳
 犬懸上杉憲藤の次男。兄朝房とともに各地を転戦。晩年は関東管領となった。

上杉朝良【うえすぎ・ともよし】 ?〜1518
 五郎、治部少輔。朝昌の子。上杉定正の養子となり、扇谷上杉氏を継ぐ。河越城主。北条早雲・今川氏親と結んで山内上杉氏と戦ったが敗れ、降伏。江戸城に隠棲した。

上杉憲賢【うえすぎ・のりかた】 ?〜1560
 次郎。憲清の子。深谷上杉氏。深谷城主(深谷市本住町)。後北条氏と争うが及ばず、傘下に組み入れられた。

上杉憲勝【うえすぎ・のりかつ】 生没年不詳
 新蔵人。定正の子。扇谷上杉氏。松山城主。はじめ奥州にいたが太田三楽斎に招かれ松山城に入り、上杉謙信の麾下に入る。永禄6年(1563)武田・北条連合軍に破れ氏康の家臣となり、300貫を与えられた。

上杉憲清【うえすぎ・のりきよ】 生没年不詳
 深谷上杉氏。房憲の子。深谷城主(深谷市本住町)。

上杉憲成【うえすぎ・のりしげ】 ?〜1637
 氏憲の子。深谷上杉氏滅亡後男衾郡篠葉荘(江南町板井)に住み小久保氏を称した。

上杉憲信【うえすぎ・のりのぶ】 生没年不詳
 庁鼻和上杉氏。憲光の子。庁鼻和城主(深谷市国済寺)。永享13年(1441)の結城合戦では入間川まで出陣して苦林野(毛呂山町苦林)村岡河原(熊谷市村岡)で一色伊予守を破り、結城城を陥落させた。

上杉憲英【うえすぎ・のりふさ】 ?〜1404
 庁鼻和上杉氏。関東管領上杉憲顕の6男。庁鼻和城主(深谷市国済寺)。上野守護職。庁鼻和城を築く。

上杉憲政【うえすぎ・のりまさ】 ?〜1579
 憲房の子。山内上杉氏。上野平井城主。関東管領。天文15年(1546)の河越夜戦では北条勢に惨敗し、関東管領としての威厳は失墜。越後の長尾景虎を頼り、上杉姓と関東管領職を譲った。上杉謙信の誕生である。謙信の力添えもあり平井城奪回を果たすが、謙信死後の家督争い(御館の乱)の最中に斬殺された。

上杉憲光【うえすぎ・のりみつ】 生没年不詳
 左馬助。庁鼻和上杉氏。憲英の子。庁鼻和城主(深谷市国済寺)。

上杉憲基【うえすぎ・のりもと】 生没年不詳
 関東管領。上杉禅秀の乱ではいったん越後まで引くが、武州白旗一揆の加勢を得て世田谷で禅秀軍を壊滅させた。

上杉憲盛【うえすぎ・のりもり】 ?〜1575
 三郎、左兵衛尉。憲賢の子。深谷上杉氏。深谷城主。初め山内上杉氏に属したが武田軍との戦いに敗れる。のち上杉謙信の麾下で後北条氏と戦うが、天正元年(1573)後北条氏に降伏。翌年謙信により深谷城下が焼き払われる。

上杉房顕【うえすぎ・ふさあき】 1435〜1466  32歳
 兵部大輔。憲実の子。関東管領。長尾景仲、上杉持朝とともに古河公方足利成氏と戦う。分倍河原の戦いで敗れた後は上杉憲信とともに深谷、騎西、岡部等で転戦。長禄元年(1459)太田荘で成氏に敗れて以降は五十子(本庄市)で対陣し続けた。

上杉房憲【うえすぎ・ふさのり】 生没年不詳
 深谷上杉氏。憲信の子。深谷城主。康生2年(1456)深谷城を築き、居城を庁鼻和城から移した。

上杉政実【うえすぎ・まさざね】 ?〜1473
 扇谷上杉氏。持朝の子。河越城主。古河公方の軍勢との戦いで戦死。

上杉持朝【うえすぎ・もちとも】 1418〜1467  50歳
 竹寿丸、三郎、弾正少弼、修理太夫。扇谷上杉氏当主。永享の乱、嘉吉の変で活躍。太田道真に命じて河越城、岩槻城を築かせた。

上田上野介【うえだ・こうずけのすけ】 ?〜1416  
 扇谷上杉氏の家臣。松山城主。六本松合戦で討ち死にした(「鎌倉大草子」)

上田左近【うえだ・さこん】 生没年不詳
 実名不詳。後北条家家臣。小机衆の1人。入東郡鶴間(富士見市鶴馬)・水子(富士見市水子)・難波田(富士見市上南畑、下南畑)などに477貫962文を有した(「役帳」)。

上田友直【うえだ・ともなお】 生没年不詳
 左衛門尉。扇谷上杉家の家老。応永年間(1394〜1427)に松山城(比企郡吉見町北吉見)を築いた(「新編武蔵風土記稿」)。

上田朝直【うえだ・ともなお】 1494〜1582  89歳
 案独斎、能登守。政広の養子。松山城主。秩父郡安戸村(東秩父村安戸)の出身。初め扇谷上杉氏、のちに後北条氏に仕える。他国衆として比企郡野本・福田(東松山市・滑川町)などで471貫470文を領していた(「役帳」「浄蓮寺過去帳」)。

上田長則【うえだ・ながのり】 1534〜1583  50歳
 蔵人佐、能登守。松山城主。朝直の子。後北条家家臣。松山城下町の経営を推し進め、天正4年(1576)に城下の町人に対して5ヶ条の定書を出している。

上田憲定【うえだ・のりさだ】 生没年不詳
 上野介。松山城主。朝直の子。後北条家家臣。長則死後城主となる。天正13年(1585)には新たに市場を開設。秀吉の小田原征伐のときは小田原城に篭城、その後の行方は不明。

上田憲直【うえだ・のりなお】 生没年不詳
 朝直の子。後北条家家臣。印判状が1点提出されているが、憲定と同一人物である可能性が高い(「鈴木文書」)。

上田政広【うえだ・まさひろ】 ?〜1561
 又次郎、案独斎。秩父郡安戸(東秩父村安戸)の土豪。上杉氏に属し、河越夜戦後に松山城に拠っていたがのちに北条氏に付いた。永禄4年(1561)上杉謙信に攻められて敗死。

魚沼工藤三郎【うおぬま・くどうさぶろう】 生没年不詳
 北葛飾郡魚沼(松伏町魚沼)出身の鎌倉武士。承久の乱に幕府方として参戦したが宇治川の戦いで負傷。

羽川珍重【うがわ・ちんじゅう】 1685〜1754  70歳
 俗名太田弁次郎。埼玉郡川口(加須市川口)の生まれ。幼くして江戸に出て鳥居清信に画を学び、浮世絵師となった。

潮田資勝【うしおだ・すけかつ】 ?〜1590
 資忠の子。天正18年(1590)小田原城で父とともに戦死。

潮田資忠【うしおだ・すけただ】 ?〜1590
 出羽守。岩槻城主太田資正の4男。寿能城主(大宮市寿能二丁目)。母方の姓である潮田を名乗っていた。永禄7年(1564)兄氏資が後北条氏につくと、寿能城もその傘下に入る。秀吉の小田原征伐のときは小田原城内にいたが、同城内で戦死。寿能城も落城した。

潮田資政【うしおだ・すけまさ】 生没年不詳
 資忠の次男。父と兄の死後伯父の太田資武に育てられ、のち土井家の家老となった。

宇田川弾正【うだがわ・だんじょう】 生没年不詳
 岩付太田家家臣。足立郡辻(浦和市辻)に館を築き、居住した。

内ヶ島三郎【うちがしま・さぶろう】 生没年不詳
 猪俣党。大里郡内ヶ島(深谷市内ヶ島)の出自。国綱の孫盛忠か。承久の乱では北条泰時の先発隊18人の中の一人で宇治川で敵将2人を討ち取った。

内ヶ島国綱【うちがしま・くにつな】 生没年不詳
 五郎。岡部忠綱の子。大里郡内ヶ島(深谷市内ヶ島)に住し内ヶ島氏の祖となった。

内田周斎【うちだ・しゅうさい】 1784〜1830  47歳
 賀美郡七本木(上里町七本木)の生まれ。塚田多門、太田錦城に学び郷里に塾を開いた。独学で数千巻の書を読破したという。著書に『左伝集説弁義』

内村勝文【うちむら・かつぶみ】 生没年不詳
 四郎左衛門。武州白旗一揆の別府幸実の家臣。上杉禅秀の乱では幕府方となり各地で戦功を立てた。

宇野家治【うの・いえはる】 生没年不詳
 源十郎。定治の子。後北条家家臣。御馬廻衆の1人。川越今成(川越市今成)で200貫465文の知行を得ていた(「役帳」)。

宇野定治【うの・さだはる】 生没年不詳
 藤右衛門尉。もとは丸薬「透頂香」を製造販売していたが、北条早雲にまねかれ小田原に下向し薬の独占販売権を与えられた。川越今成の代官を勤める。

宇野吉治【うの・よしはる】 生没年不詳
 藤五郎。家治の子。後北条家家臣。御馬廻衆の1人。松山筋野本京方(東松山市上野本、下野本、美土里町)に26貫463文の知行を得ていた(「役帳」)。

雲室鴻漸【うんしつ・こうざん】 1753〜1827  75歳
 信濃飯山の僧。林大学頭に儒学を学んだ最初の僧侶といわれる。上尾宿に数年間留まり庶民にも解り易く儒学を説いたことで信奉を集め、生神様とまで言われた。