●二宮就辰(1549?〜1607)  [from:戦国群雄伝]

 お久し振りの戦国群雄伝からは二宮就辰を紹介しよう。
 就辰は毛利元就・輝元に使えた武将である。先祖は甲斐源氏の出であり、父の二宮土佐守春久の時から毛利家に仕え始めた。春久は12歳のときに祖父と父を戦で亡くしていたが(あまり毛利家は関係ない合戦だった)、年少より武勇に優れていたのが元就の目に留まったらしい。そして仕えるとさっそく武功を立てて知行を貰ったのだそうだ。
 こう見るとどうも三代続けて剛の家柄だったらしく、就辰も元服した翌年、15歳のときに元就から直々に軍功状を貰ってたりする。しかし若き就辰(この時は與次とか名乗ってたそうだが)はこう考えていた。「これからは剣より学問の時代だ」と!!
 ……ごめんなさいウソです。さすがにこの時はまだ武田信玄と上杉謙信が川中島でちゃんちゃんばらばらやってた時だし、公方様だって塚原ト伝から認可状貰っちゃうぐらいだしねぇ。就辰がこんなこと考えてたかはわかりませんが、実際この後は武功の記録はなくなり、毛利輝元の奉行人としての記録が多くなってきている。信長に京都を追い出された足利義昭の面倒も見ていたらしく、義昭直々に随分と偉そうな手紙を寄越してたりもしている。
 そんな就辰の一番の大仕事はなんと言っても広島城の築城普請だろう。吉田郡山という山奥(地元の人ごめんなさい)では経済発展は望めないしいざという時の大軍の召集も出来ないし新幹線は通らないしJリーグは誘致出来ないし(ウソです)という訳でもっと便利な土地に居城を移そうと考えた輝元は、就辰に「どこに城を築けばよいか」と訊ねた。すると就辰「己斐川の河口、五箇荘が良いでしょう」と答えた。輝元も尤も、と思ったが就辰の言うことが信じられなかったのか、近くまで来ていた黒田官兵衛に「うちの家来がこう言ってるんですがどう思います?」と質問してしまった。官兵衛はわざわざ五箇荘まで来て、「その家臣の言うとおりにするべきだ」と答えたので輝元も安心して場所を定め、就辰に普請奉行を命じたのだった。官兵衛がダメ出ししてたら就辰一世一代の大仕事がなくなってたかもしれないのだ。よかったね、就辰クン。
 ともあれ築城が始まった。しかし毛利家120万石といえど数々の合戦により予算がそんなに組めない状況だった。就辰は少ない予算を工夫して、西国一の大大名の居城にふさわしい立派な城を造らねばならなかったのである。就辰は考えた末に(1)領内の村から人数を決めて人員を徴発する(2)毛利家家臣にはその資力に応じて普請を負担させる(3)領国の民全員から有り金の1割を出させて、3年後に元利金共に返還する――以上3策を立案、実行したのである。
 しかし、先にも述べたように毛利家は相次ぐ合戦で家臣も民もお金がない。そこで「ウチはこれしかないんですよねー」と言って実際より少なめに申告してくる輩が続出した。これに怒った税務署就辰は「ほんまにそれしかないんか」と村々へ殴りこみ、検地をして実際の資力を算出。分相応の供出金を出させたのである。
 こうした苦労のもと築かれた広島城は、豊臣秀吉も「すごいだぎゃあ」と褒め称えたほどであり、毛利家としてもメンツを保てて一安心であった。で、就辰はというと知行が9000石に加増されたばかりでなく、突然朝廷から従五位下信濃守を任じられ、あまつさえ豊臣就辰と名乗るようになってしまったのである!!
 就辰が何故かくも立身出世を成し遂げたのか……それはただ経理に明るく大功を挙げただけではない。後年『萩藩閥閲録』には就辰出生の秘密が記されていた。それによると就辰の母矢田甲斐守の娘はもともと毛利元就の側室で、妊娠7ヶ月のとき元就より二宮春久に嫁ぎ、そこで生まれたのが就辰なのである。つまり就辰は元就53歳の時のれっきとした息子であったのだ。まさか元就公の御落胤であったとは、↓の能力値を見たらとうてい信じられないだろう。合掌。

シナリオ所属国身分年齢政治戦闘魅力野望忠誠部隊
2;信長の野望安芸現役(毛利家)332527693280足軽隊


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