●真里谷信保(?〜1534)  [from:嵐世記]

 シリーズ最大の武将登場数を誇る『嵐世記』。多くの初登場武将がいるが、その中から初登場でいきなり大名の真里谷信保を紹介しよう。
 本姓は真里谷ではなく武田である。これは他に武田一族が複数登場するために採られた措置で、過去にも『覇王伝』にて扇谷姓や能島姓など、他に同じ苗字の者がいたために地名を苗字にされてしまった武将がいる。彼らでプレイする時は名前エディタを使って本来の苗字に直してあげよう。しかし信保の一族の場合、実際に真里谷姓を名乗ったこともあるようで、本家との区別を付けたかったのかもしれない。
 ここでいう本家とは当然甲斐の武田氏である。康生元(1455)年、古河公方足利成氏に従っていた甲斐武田氏の一族武田右馬助信長は、戦功として上総守護職に任命された。信長は早速武力入国を決行し、翌年庁南(千葉県茂原市)真里谷(千葉県木更津市)両城を攻め落として本拠地とした。ここに上総武田氏が誕生したのである。
 時代が下ると、信長の孫の信興・道信兄弟がそれぞれ真里谷・庁南に住して独立した。この真里谷信興の孫が信保である。

 さて、この頃の真里谷氏は下総小弓城の原氏と領土争いを繰り広げていた。原氏は名家千葉氏の家臣だったが、既に主家を凌ぐ力を付けており、真里谷氏も劣勢に立たされていた。状況を打開すべく真里谷氏が取った行動は、古河公方足利政氏の次男で、兄高基との不和で放浪の旅を続けていた足利義明を味方に付けることだったのである。
 腐っても公方様の子である。たちまち周辺土豪の協力を得、さらに北条早雲まで味方にした真里谷氏は永正14(1517)年に小弓城を占領。義明が居して「小弓御所」と称したのである。これは信保の業績とも、また父信勝のものとも言われはっきりとしていない。
 ともかく、真里谷氏は現在の木更津市、富津市、市原市等を治める大名となった。その後信保は出家して恕鑑と号すると、天文3(1534)年には一族の朝信をして大多喜城を攻め取らせるなど一層の勢力拡大につとめた。しかしこの年の7月、信保はあっけなく亡くなってしまうのである。
 信保には信隆と信応の二人の息子がいたが、信隆は長男ながらも妾腹であり、信応は嫡系であったがまだ幼少であった。これだけシチュエーションが揃えば、お決まりの家督争いが起こるのが世の常である。信隆はここで小田原北条氏に通じ、小弓御所の後ろ盾を持つ信応に対抗した。
 しかし。関東制覇を目指す北条氏に接近したのが運の尽き。家督争いは信隆が隠遁することで収まったが、事は真里谷家だけの問題に留まらず、北条氏擁する古河公方と里見氏擁する小弓御所という足利一族の紛争に発展した。まるで応仁の乱の再現のようである。結果第一次国府台合戦(1538)が勃発。小弓御所足利義明は戦死し、里見氏も大打撃を受けた。これ以後、北条氏による房総侵略が始まるのである。

 さて、これ以後真里谷氏がどうなったかというと、国府台合戦以後はひたすら凋落の道を転がり続け、傍系の庁南武田氏に従属するようになったようである。庁南武田氏は里見氏に従っていたが、里見・北条間に和睦が成立すると北条氏麾下となり、そして豊臣秀吉による小田原征伐で主家と運命を共にしたのである。この時真里谷城も廃城となり、真里谷氏は歴史の表舞台から姿を消してしまった。

 最後に殆ど出番の無かった信保だが、本文中にあるとおり1534年に没している。そしてこの年はシナリオ1の開始の年でもあるのだ。つまり登場してもすぐに消えてしまう、シリーズ史上最も登場期間の短い武将なのである。合掌。

所属勢力政治統率知略野望特技名声
真里谷信保真里谷家大名78678687訓練、回復
捕縛、攻城
無視


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