●上杉憲賢(?〜1560)  [from:武将風雲録]

 2人目として紹介するのは『武将風雲録』で登場した上杉憲賢である。
 ↓のデータを見てもらえればわかるが、憲賢は唯一の登場が大名としての登場なのである。このシナリオ「戦国の動乱」は1555年から開始される。1555年といえば西では厳島の戦いが起こり、翌年には長良川の合戦で斎藤道三が息子義竜により討ち取られている。また川中島では武田信玄と上杉謙信がせっせと戦っているという、戦国乱世の中でも最も混沌とした時代といえる。
 そんな中、武蔵国は従来の扇谷上杉氏山内上杉氏の支配に小田原北条氏が割り込んできて、いっそう混乱を極めていた。ということは憲賢は扇谷か山内どちらかの上杉氏の棟梁なのだろうか?
 答えは否である。扇谷系は『武将風雲録』には登場せず、山内系の当主上杉憲政はお隣上野国で大名をしている。では憲賢は、というと、実は深谷上杉氏という家の当主なのである。
 深谷上杉氏の祖上杉憲英は山内上杉憲顕の6男である。憲英は庁鼻和(埼玉県深谷市)に庁鼻和城を築き、分家独立して庁鼻和上杉氏を名乗った。次に憲英のひ孫房憲が深谷城を築いて深谷上杉氏を名乗り、さらに房憲の孫が憲賢、ということになる。
 さて、この憲賢だが詳しいことは実はわかっていない。事績と言えば熊谷市久下の東竹院を再興したぐらいで、戦国大名としての業績は何一つ残っていないのである(没年は何故か1560年4月6日と明確である)。息子の憲盛は深谷上杉氏の再興を計ったがかなわず、1573年に北条氏政と和睦、その傘下に入った。翌年には報復として上杉謙信に深谷城を攻められ、城下を焼かれたと記録にある。憲盛はさらに翌年(1575年)に卒し嫡男氏憲があとを継いだ。氏憲は北条氏の家臣として小田原合戦を戦ったが破れ、信州更級郡を落ち延びていった。ここに名族深谷上杉氏は滅亡したのである
 なお、この深谷上杉氏には「深谷の三宿老」だとか「深谷上杉四天王」と称される有力な家臣がいた。岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人が「三宿老」、これに上原出羽守を入れて「四天王」というのだそうだが、いずれも『武将風雲録』ほかのシリーズには登場していない。深谷上杉氏が復活することがあるならば、ぜひこれらの武将も登場してもらいたいものである。

シナリオ所属国身分政治戦闘教養魅力野望忠誠
上杉憲賢1;戦国の動乱武蔵大名4845617546--
上杉憲盛1;戦国の動乱武蔵上杉家家臣455159625586
上杉憲盛2;信長包囲網武蔵北条家家臣465159625586


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