●野々村三十郎(?〜1584)  [from:戦国群雄伝]

 マイナー武将にも光を!ということで始まった『信長の野望マイナー武将FILE』。記念すべき第1回は『戦国群雄伝』の野々村三十郎を取りあげる。
 三十郎は織田家臣団の一人で、本名は正成という。武将格というより信長の側近として活躍し、長篠合戦では佐々成政、前田利家らとともに鉄砲奉行をつとめたほどである。1578年11月、荒木村重が摂津有岡城にて謀反を起こすと、近隣の茨木城の守備を固めた。また、1582年2月の紀伊雑賀攻めでは検使の役をつとめるなど、主に吏僚としての活躍が多かったようだ。1581年には長谷川秀一とともに近江に知行を宛われ、信長直轄領の代官もつとめている。
 このように、隠れたところで活躍を続けた三十郎だが、資料を漁っていくうちにある疑問にぶち当たった。三十郎の没年は表題にある通り1584年とされている。これはコーエー刊『戦国群雄伝武将FILE』を参照したものだが、同じくコーエーの『信長解体新書』には1582年の本能寺の変にて死去したとなっているのだ。さらに『戦国群雄伝武将FILE』をよくよく見ると、とある場所にはしっかり1584年没と書いてあるのに、説明文には「本能寺の変の時、二条御所で討ち死にした」とあるのだ!
 これは果たしてどういう事なのだろうか。ここにおいて筆者は「野々村三十郎正体解明プロジェクトチーム」を発足(構成員1名)。すぐさま調査に取りかかったのである。
 そしてプロジェクトチーム発足から5分後、ついに1つの結論に達したのである!!(早すぎ)
 その結論から先に述べると、「野々村三十郎は2人いた」ということである。
 新人物往来社『戦国人名事典』の「野々村三十郎」の項には次のように書かれている。

 ……斎藤竜興に仕え永禄5年(1562)、美濃軽海の戦で織田信長方の将織田信益を討ち取る。のち信長に仕えて黒母衣衆。その後、旧友佐々成政に仕え、天正12年(1584)年、越中末盛城攻めに加わって討死。なお、尾張生れで、天正10年、織田信忠に供奉して二条で討死した(享年48)野々村三十郎幸政なる者があるが別人であろう。

 とある。つまり、同じ織田信長の家臣に「野々村三十郎」なる人物が2人いたため、後世の資料も混同してしまった、という訳である。  では『戦国群雄伝』に登場する三十郎はどちらなのであろうか。『群雄伝』の三十郎は越中に所在している。そして、越中の城主をつとめているのが佐々成政なのである。ということは「佐々成政に仕え」て末盛城で戦死した野々村三十郎こそが、『戦国群雄伝』に登場する三十郎であると結論づけられるのである。

シナリオ所属国身分年齢政治戦闘魅力野望忠誠部隊
2;信長の野望越中現役(織田家)453257313982足軽隊


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