テレビ50年 1956年 声優の誕生
米テレビ映画 画期的な吹き替え モニター見つめ生放送 アニメブームで人気上昇
「弾丸(たま)よりも速く、力は機関車よりも強く」――。1956年11月1日、「スーパーマン」の放送がKRT(現・TBS)で始まった。新聞記者のクラーク・ケント(ジョージ・リーブス)がスーパーマンに変身して空を飛び、悪と戦う30分の米国製テレビ映画は、せりふを字幕ではなく、吹き替えにしたのが画期的だった。スーパーマンの声を演じた大平透(73)は、番組とともに一躍人気者となる。
「声優」が誕生した。
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「スーパーマン」の担当ディレクターは、偶然にも大平と同じ小学校で1学年下の瓜生(うりう)孝(72)だった。「洋画は字幕でなければ文化ではないという時代だったが、初期のブラウン管は小さくて文字数が入らないし、子供が読めない。大衆娯楽にはふさわしくなかった」と、吹き替えを採用した理由を説明する。
現場は大騒ぎだった。当初の録音技術では、音声と映像にずれが生じるため、KRTでは生放送で吹き替えていた。「狭いアナウンサー用ブースの中に小さいモニターとマイクが1本。十数人が折り重なるようにしてその前に立った。台本を落として出番が過ぎちゃったこともある」と大平は回想する。キスに合わせて腕をチュッと吸ったり、効果音もその場で再現した。
後に音楽や効果音だけが入ったテープが輸入されるようになり、録音が一般的になるが、やはり苦労は尽きなかった。「ヒッチコック劇場」(日本テレビ)でヒッチコック監督の声を演じた熊倉一雄(76)は、「コマーシャルまで約15分の間、途中でとちっちゃうと最初から録音のやり直し。生の時とは違う大変さがあった」と語る。
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「名犬ラッシー」(KRT)や「ペリー・メイスン」(フジテレビ)……。多数の米国製作品が日本の茶の間をにぎわせたのには背景があった。当時、映画会社は台頭してきたテレビに対して映画を提供しないという「5社協定」を結んでいた。このため、各局は先行していた米国に目を向け、テレビ向け映画の輸入に力を入れたのだ。
KRT映画部長だった津川溶々(ようよう)(86)は、「当時は外貨の使用が制限され、購入するにも限界があった。どんな作品が日本人に受けるか、選ぶ目が問われた」と述懐する。
これらの作品に登場する冷蔵庫、洗濯機などの家電や豊かな生活は、戦後日本人のあこがれを誘った。
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草創期の「声優」は、俳優の副業的位置づけで、“陰の存在”だった。KRTの専属劇団員だった大平は、「他の団員から『吹き替えの主役より通行人でドラマに出た方がいい』と言われた。私も『声優』と呼ばれるのは嫌だった」と振り返る。
その後、63年に国産初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」が始まり、「宇宙戦艦ヤマト」など七、80年代のアニメブームに乗って、人気キャラクターを演じる声優という職業も脚光を浴び、ファンのあこがれになっていく。
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97年2月、声優の椎名へきるのコンサートが、日本武道館を2日にわたって満席にした。役があっての人気だった大平などとは違い、声優そのものがアイドル的人気を持ち始めた象徴的な出来事だった。歌、ゲーム、ラジオなど仕事の分野も広がり、声優専門の雑誌も登場するに至る。
赤松健の漫画が原作のアニメ「ラブひな」のヒロイン・成瀬川なるなどを演じ、オリジナルアルバムも2枚出している堀江由衣(ゆい)(26)も若手人気声優の1人。小学生のころ、高千穂遙のSF小説をアニメ化した「ダーティペア」のヒロイン・ユリにあこがれて声優を志し、短大生の時に声優雑誌に載っていた広告を見て養成所のオーディションを受けた彼女は、「この世界に入るまで、声優と演劇を全然結びつけて考えていなかった」。
熊倉は「やはり演劇は経験すべきだ」、大平も「声優が自分自身を前面に出すべきではない」と、最近の風潮には苦言を呈する。しかし、堀江も「自分のファンがいるのはとてもありがたいけど、演じたキャラクターが良かったと言ってもらえる方がうれしい」と、声優としての自負はベテランに劣らない。
任天堂の人気ゲームをアニメにした「星のカービィ」などに出演する秋田まどか(23)は、自分でこつこつためた貯金で養成所に通い、「役になり切りつつ、自由に芝居ができる声優になりたい」と将来を夢見る。こうした若手や声優の卵は今や数知れない。
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大平は言う。「体も含めて表現する俳優と違い、声優は声だけであらゆる状況を再現する、いわば演技者の頂点に立つ存在。それを自覚して、初めて『声優』と名乗れるようになったんです」。声優は“陽(ひ)の当たる存在”になったが、その本質は不変だ。(敬称略)
福田 淳
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